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2018年7月22日 (日)

日本はサッカーに向いていない!?(続)

【理由その4:サッカー人気の格差】
世界のスポーツを俯瞰すると、人気度ではサッカーはトップクラスだろう。中でもW杯は世界最高峰と位置付けられ、世界最大のスポーツイベントであることは間違いない。そもそも世界でサッカーの人気が高いのは、単純で分かりやすいこと、ボール一つあれば誰でも簡単に入り込める気軽さがあること、その上で団体競技としてサッカーは観戦型よりも応援型の特性を有し、興行型としてビジネス面での優位性を併せ持つ。つまり欧州の資産家が豊富な資金を背景に、クラブチームの覇権を争うビジネスを展開する理由が存在する。
日本もサッカー人口が増えたとはいえ、サッカーは多くのスポーツの中の一つに過ぎない。野球、相撲、ゴルフなどいくつも人気のあるスポーツはあるが、やはり日本人はオリンピックにこそ、最高の価値を置く人種だ。つまり、サッカーに対する情熱・愛着と言う点では世界の多くの国に一歩譲るかもしれないが、それを無理して改める必要はないし、ありのままでよいのではなかろうか。


【理由その5:巨額の金に日本は太刀打ちできない】
サッカーはもともと貧しい国の間で広まっていった。実力さえつければ、欧州を舞台とするプロサッカーチームが大金を出しても選手を集める。優秀な選手の移籍を巡って巨額の金が動く。欧州のプロリーグで活躍する有名日本選手の年俸は4~5億円ほどらしい。これに対して、ロナウド、メッシなど超一流選手は80~90億円と、まるで桁が違う。J1リーグで活躍する日本選手の平均年俸は2661万円、1億円以上は27人、その半数が外国人で最高は6億4千万、日本人最高は1億4500万円ほどだという。野球と比べてかなり低いが、この辺が限度なんだろう。逆に言えば日本選手でロナウドやメッシ並みに稼ぐ選手が現れたら、それこそW杯優勝を狙えるチャンス到来ということになるのだろうが、まず無理な話だ。


理由その6:持ち込まれる政治問題】
サッカーは熱狂するあまり国際間の社会問題、人種問題、移民問題などが「政治とスポーツ」の問題として表面化することがある。今回もドイツの代表に選ばれたトルコ系2人のドイツ人が、訪英中のエルドアン・トルコ大統領を表敬訪問した。ドイツではエルドアンは人権無視の強権政治家という見方が一般的。大半のドイツ人の反発を買うことになり、試合のたびにブーイングが起こった。結局前回優勝のドイツは予選敗退という憂き目にあったが、このように政治問題が試合に影響を及ぼすことがよくある。かつて韓国戦で起こったように、日本にその意図がなくても、政治問題のPRの場として利用されるケースは往々にしてあった。

【最後に】こうした歴史を踏まえた上で、日本が目指すべきサッカーの姿が、50年前のメキシコオリンピックのU-23にある。アマチュア精神がまだ残るこの大会で、日本はサッカー先進国を次々に破り、銅メダルを獲得した。長いサッカーの歴史の中でメダルをとったのは後にも先にもこの大会だけである。日本はオリンピックのサッカーU-23にこそ、照準を合わせるべきと愚考する。

2018年7月21日 (土)

サッカーは日本に向いていない!?(前)

サッカーW杯ロシア大会は、フランスの5年ぶり2回目優勝で幕を閉じた。ベスト16になんとか進出した日本は、優勝候補の一角ベルギーとの対決で、歴史に残る善戦を見せたが、最後は本気になった欧州の底力を見せつけられ、ベスト8の壁を突き破ることはできなかった。日本は確かに年々力をつけ、強豪国と対等以上の戦いぶりを見せてはいる。では、近い将来日本は優勝することができるだろうか。答えは「否だ」。理由はいくつかある。

【理由その1:欧州・南米勢の歴史的な巨大な壁】
サッカーW杯は4年に1度の国際大会、その人気はオリンピックを凌ぐと言われている。過去、1930年の第1回ウルグアイ大会から、今年の第21回ロシア大会までの88年間で、優勝は欧州勢が12回、南米勢が9回、準優勝は欧州勢(含む北欧、東欧)が16回、南米勢が5回となっている。欧州・南米以外で3位になったのは、アメリカとトルコが1回だけ、アジア勢では日韓共同大会で韓国が4位になったのが最高だ。近年アジア勢や中東勢の活躍、及びアフリカ勢の台頭で、勢力分布に変化の兆しも現れたが、欧州・南米の壁はまだまだ高くて厚い。


【理由その2:埋められない身体能力の格差】
では何故この2大陸だけに偏っているのか。そもそも英国の庶民の間で生まれたサッカーは、西欧人とそこから派生した南米大陸でまず普及した。長年の歴史の中で、サッカーに適した身体能力が育まれ、スピード、バネ、球際の技術などが発達したのではないか。技術という面では日本もひけをとらなくなったが、車に例えれば、小型エンジンで性能はよいが、圧倒的な高出力のエンジンには歯が立たないようなもの。組織的チーム力では戦えても、個人の総合力ではまだまだ敵わない。


【理由その3:「フェアープレイ精神」の日本、「勝ちが全て」の世界の価値観】
サッカーは成り立ちからそうであるように、謂わば疑似的な「ムラの争い」を象徴している。戦争と言う言葉はスポーツに適切ではないが、サッカーは特に人間の本能に埋め込まれた集団間の争いを表象する要素がある。国と国の代表チームが戦うとなれば、観客は選ばれた自国の戦士の応援団となり、自然とナショナリズムが高揚する。こうした集団の闘争心を掻き立てるスポーツは、サッカーの右に出るものはないだろう。「いい試合をした」と評価されるより、どんな手を使っても勝ちにこだわる姿勢が支持される。ブラジルの花形ネイマールが転ばされて、大げさに痛がり、PKを執拗に要求する姿が見られた。ブラジル国内ではそっそく子供達が英雄の真似をしている姿がTVで流されていた。スポーツマン精神を重視する日本では教育上好ましからざる場面だった。(続く)

2018年7月16日 (月)

酷暑の日本列島、大丈夫か「東京オリンピック」

◆西日本に甚大な被害をもたらし、200人を超える人命を奪った記録的な大豪雨。いまだ6000人余の人達が避難生活を送り、関係者やボランティアの必死の復旧作業の中、熱中症で倒れる人も続出していると言う。大雨・洪水の後は、日本中が連日の猛暑で、悲鳴に近い声もあがっている。人の体温を超えるような炎天下の気温は、まさに殺人的だ。

◆連日の猛暑に、日本を訪れた外国人観光客は経験したこともないあまりの暑さにダウン寸前。少しでも涼しいところを求めてさまよっている。彼らは日本の夏の暑さが半端でないことを実感したようだ。

◆2年後の2020年、7月24日から8月9日にかけて、東京オリンピックが開催される。また、8月25日から9月6日にかけてはパラリンピックも開かれる。自然現象であるから予断はできないが、開催中の気温は最低でもこの夏の気温と同程度と想定した上での計画でなければならない。

◆水泳競技、ヨット・ボート・カヌー等の水上競技、冷房が効く屋内競技は問題ないだろうが、マラソン、競歩、サッカーなど屋外の長時間競技は厳重な暑さ対策が求められる。選手への対策と同等以上に観客への暑さ対策も重要だ。競技中に死者が出たなんてことになったら、大会運営当事者だけでなく、日本全体が批判にさらされる。それ以上に何故こんな時期にオリンピックの開催を決めたのか、根本的な問題が問われるだろう。

Photo


2018年7月 3日 (火)

潜伏キリシタン世界遺産登録を祝す

ユネスコの世界遺産登録委員会は6月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を世界文化遺産に登録すると発表した。長年の苦労が報われたことをまず喜びたい。長崎では数年前からこの運動を始めていたが、そのことを全面支持する旨、本ブログで書いたことがある。長崎・天草地方には、約250年に亘る隠れキリシタンの歴史があり、平戸島、五島列島、西彼杵半島、また熊本県天草諸島の集落に、子孫らが守ってきた文化や教会群が散在する。これらを世界遺産に登録しようと2016年に一度申請したものの、諮問機関の指摘でいったん取り下げた。
     ◇       ◇       ◇
何故だろうか。問題はコンセプトの捉え方にあった。当初は、小さな集落にある素朴な教会建築の文化的価値を中心に登録申請したものの、今ある教会群は、当然ながら禁教期間の250年間、一度も現存したものではない。明治以降に禁教が解かれたあと、集落の信徒らの献身的な努力で建築されたもので、長くても150年ほどのもの。建築物それ自体に大きな文化的価値があるとは認められなかった。要は物理的建築物よりも、潜伏期間の歴史に焦点を当てたものに改めるべきとの指摘がなされた。
     ◇       ◇       ◇
1614年、全国にキリスト教禁教令が発令、1637年、「島原・天草の乱」(原城跡の史跡)のあと、キリシタンたちは長崎・五島・天草の目立たぬ海岸集落に散って、既存の宗教や社会と共生しながら秘かに信仰を続けた歴史があった。そして、幕末の1865年(慶応元年)、長崎の外国人居留地のフランス人らによって大浦天主堂が建築された。それを機に浦上村の潜伏キリシタン14、5名が命懸けで名乗り出て、信仰を告白した。弾圧に耐えながら250年、信仰を貫き通した事実は「宗教史上の奇跡」として世界に驚きを与えた。こうした歴史的、文化的、宗教上の価値を構成する12の資産をもとに再度申請して、登録されたものだった。登録を審査するユネスコ委員の中には「類まれな資産だ」、「登録に値する」などと称賛が相次いだと言う。
     ◇       ◇        ◇
今まで、平戸、島原、西彼、五島、天草などを訪れる機会が何度かあったが、これらの遺産群に直接お目にかかったことは少ない。五島の福江島ではいくつかの趣きのある教会に立ち寄ったが、残念ながらこの中からは登録遺産に選定されたものはなかった。ただ、長崎市内で育ったこともあり、大浦天主堂は何度も訪れている。一昨年、娘家族との長崎旅行の際の大浦天主堂の感想一番、「入館料が高いばかりで、中身は詰まらない」。
何でもそうだが、こうした歴史建造物などは見る人に下地があるかないかによって、評価に天地の差が出る。先日NHKで国宝「大浦天主堂」の歴史的建造物の意義、建築に関わる秘話、ステンドグラスが醸す光の芸術等々、深く掘り下げた番組を放送していた。こうした情報を得た上で、実物に触れるならば、大きく評価が変わったものと思われる。


Photo 大浦天主堂

2018年6月23日 (土)

国歌「君が代」に思う

サッカー・ワールドカップ ロシア大会。初戦の強豪コロンビアに快勝したことで、日本中が盛り上がっている。次のセネガル、ポーランド戦の健闘が期待されるところだが、スポーツの国際大会ほど、国がひとつになるということを実感させられることはない。特に国旗掲揚国歌演奏では、どこの国民であっても、誰しもが自国への愛着を感じる瞬間だろう。「日の丸」の掲揚、「君が代」の演奏は、学校行事で敢えて反抗する教師だろうが、憲法改正反対を唱える野党であろうが、考え方の右・左に拘らず、こうした国際スポーツ大会にあっては、国への愛着心が自然発生的に芽生え、「日の丸」の掲揚と「君が代」の演奏が自然に受け入れられている証ではないだろうか。
       ◇         ◇        ◇
国歌「君が代」の誕生の経緯については様々言われているが、明治期早々、日本が海外諸国との交流に当たって、外交儀礼の場で国歌が必要であることを知るようになる。当時、日本には国歌という概念自体がなかった。このままでは文明国扱いされないので、急遽作ることに相成った。いい歌詞はないかと既成のものを探したところ、『古今和歌集』の詠み人知らずの短歌「君が代」が選ばれた。
       ◇         ◇        ◇
当初は「我が君は」で始まったが、平安時代末期に「君が代は」に言い換えられたと言われる。歌詞の内容は、「君」というのは天皇だけでなく、将軍という意味や、目の前の「あなた」という意味でも1000年ぐらいの間に使われ、その人が「千代に八千代に」健康で長寿であるようにとの祝いの歌として使われてきた。江戸時代にはポピュラーソングだったという歴史さえあったという。英国はじめ多くの君主国は、「国王万歳」という国歌を作っている。「君」を天皇ととらえれば、これはちょうどいいとなったようだ。
       ◇         ◇        ◇
作曲は国歌の制定を進言した英国人軍楽隊長フェントンが当たったが、讃美歌調のため不評だった。そこで宮内省の奥好義が付けた旋律に、雅楽奏者の林廣守が曲を起し、ドイツの海軍軍楽教師エッケルトが五線譜に直して、西洋和声をつけて編曲、1880年に「君が代」が完成した。この「君が代」は子供の頃は歌いにくく、古臭くて好きではなかった。しかし齢を重ねるに従い、その良さが分かってきた。この歌には1500年近い日本の歴史と伝統を感じさせ、庶民にも愛されてきた歌であり、重厚・荘厳な曲調であり、また明治期の国際化の中で外国人も一翼を担って誕生したという背景を併せ持つ。
国際スポーツ大会において、選手たちには「気を引き締め、奮い立たせる」歌であり、サポーターには「選手たちと心をひとつにさせてくれる」歌でもある。まさに日本の国歌として最高・最適な国歌ではなかろうか。


       「君が代」        歌詞:古今和歌集「詠み人知らず」
                      作曲:林 廣守
 
       
君が代は  千代に八千代に  さざれ石の 
                巌となりて    苔のむすまで

        


    

2018年6月18日 (月)

江戸の敵を長崎で討つ

「江戸の敵を長崎討つ」という慣用句がある。偶然予想もしなかったような場所で、積年の恨みをはらす、の意味で使われていたようだが、今日ではこの慣用句自体廃れてきた感がある。しかし、この慣用句は間違って伝わったもので、もともとは「江戸の敵を長崎討つ」というのが正しいのだそうだ。
 ものの本によれば、江戸時代、文政年間に大阪の一田七正郎という職人が巨大な涅槃像を竹細工で作り、浅草で展示に供した。これが大好評を博したが、江戸の職人たちにとっては面白くない。江戸っ子気質で負けてはならじと、布袋の像を作って対抗したが、にわか作りのこととて、大阪陣に完敗を喫してしまった。
 ところがちょうど同じころ、江戸で、長崎からきた興行師がオランダ船の見世物を打った。あちこちが機械仕掛けで動くカラクリ使用の模型船で、大砲の轟音までおまけについていた。人気は非常に高く、先の大阪の竹細工は大きく水をあけられた。
そこで、「江戸の敵を長崎が討った」と言われ始め、いつの間にか由来が忘れられて、「長崎」が、「長崎」に変わっていったのだという。

~で」は場所を表し、「~が」は主語を表す。大きく意味は異なるが、「北朝鮮が非核化を目指す」が、いつの間にか「朝鮮半島の非核化に」変わってしまった。主語と場所が曖昧になると、こういうぼやけた表現になるという典型例ではなかろうか。

2018年6月15日 (金)

「女」の付く字を分析すれば

漢字に纏わる面白い記述を見つけた。
」という字はもともと、左右の手を重ねて、科(しな)を作り、ひざまづいている女性のさまをかたどった象形文字が原点となっている。
その「女」を部首にした漢字には、(若い女の美しさ、好ましい、好む、よい)、(アイ、目元が美しい、美人)、(ケン、うつくしい、見目がよい)、(キ、ひめ)、(ミョウ、たえなる、しなやか)、(シャク、麗しい)、(キョウ、なまめかしい)など、さすが女性の美しさをもとにして作られた字が多い。

だが、そうでない漢字も少なくなく、だれが考えたのか、その字源のナゾを解けば、女性からおしかりを受けそうなコジツケがあると言うのだ。

としてもっともいときが「」時代、(たそがれ)ないうちに挙げるのが結式。新郎に抱かれて寝に横たわると夫婦生活が「」まる。夫に体をせて身をわせると「妊娠」する。亭主の鼻につくようになると、女編に鼻と書いて「かかあ」と呼ばれる。息子が色気づいてばかり目が向くと、勉強の「げ」になると教育ママがる。夫の浮気を嗅ぎだしてはのようになって「(や)」き、相手の女が(にくい)と、ヒステリックに「(ねた)」む。この現象を嫉妬と呼ぶ。着飾ってクラス会とやらに出かければ、女三人寄って「(かしま)しい。若い男に言い寄られると、柳を描いて「(こび)」を売る。
そろそろ我が家でも「」をって孫の顔でも見たいと息子に「(めと)」らせる。女も長い間やっているとくなり、「」(しゅうとめ)と言われて煙たがれる。肌もうって「」となり、頭にをいただいて「(やもめ)」となる。最後はいて「(うば)」となって女の一生は終わる。

2018年6月 9日 (土)

「飛んで火にいる夏の虫」の話

「飛んで火にいる夏の虫」という諺がある。夏の夜、灯火を目がけて飛んでくる羽虫がその火に焼かれて死んでしまうことから、一般的には、自分から進んで身を投じることの例えに使われる。 「今敵陣に乗り込めば、それこそ飛んで火にいる夏の虫だ」というような使われ方をする。昆虫が光に向かって飛ぶ習性を利用して、害虫を駆除する誘蛾灯などに使われる。昆虫はその波長の光に最もよく感応することから、進んで飛び込んでいるように見えるが、ある昆虫学者の研究によると、光が好きで遠くから光を目がけて飛んでくるのではなくて、飛び立った空間を漂流しているうちに、光の刺激によって、嫌でもその光源に飛び込まされてしまうと言うのだ。
           ◇             ◇           ◇
つまり、昆虫が能動的に「光」に飛び込むのではなく、受動的に「光」に飛び込まされてしまうと言う説だが、虫などは心理活動を持たないから、光や熱などの自然界の要因から直接の刺激を受けて行動を変えさせられる。人間はそれらを克服しようとする意志を働かせるから、虫とは違う。我々の周りは刺激の源だらけだ。それを避けようとして余計に緊張を高めることがある。普通に打てば何のこともないのに、ハエを意識するあまり、強く叩いて結局打ち損じてしまうことがある。よくスポーツ選手で、練習では妙技を見せるのに、本番になると力を発揮できず負けてしまうケースが間々ある。これも心理的刺激を強く受けすぎるがための影響だろう。
           ◇             ◇           ◇
「失敗はすまい。あれだけは避けよう」と思い詰めていると、そういう感覚自体が刺激源となって、失敗の道に引き込まれてしまいがちになる。今年の読売ジャイアンツは昨年同様、心理的刺激を強く受け過ぎ、失敗の道に引き込まれてしまった感がある。セ・パ交流戦に入って、ついに最下位に転落してしまった。
巨人は他球団以上に観客が多く、いつも満席状態の中で、プレッシャーが強く働く。「失敗はしまい。いいところを見せよう」といった心理的刺激を自ら働かせ過ぎて、結局失敗の泥沼に陥ってしまっている。巨人から転出したDeNAのロペスや日ハムの大田など、水を得た魚のように伸び伸びと活躍している。一方他球団で活躍した外国人選手が巨人に入団した途端、期待外れの成績しか残していない。これらは正にそのことを如実に物語っていると言えよう。今求められるものは、夏の虫になって火に飛び込むことではなく、火を見て楽しむ余裕を持つことだ。

2018年6月 3日 (日)

数詞の三桁区切りと四桁区切り

数のケタ区切りは世界的には三ケタ区切りが一般的だが、本来日本では四ケタ区切りが主流だった。しかし、世界中どこの国を探しても、日本語の数詞ほど整然と首尾一貫して合理的な数詞は存在しない。日本では一、十、百、千、万と整然と位取りが上がる。九十九の上は十が10個で百、百が10個で千、千が10個で万と整然としている。さらに十万、百万、千万、一億、十億、百億、千億、一兆・・・と4桁ごとに位取りが上がるという整然とした理論で成り立っている。
             ◇       ◇       ◇
即ち、10の1乗=10、10の2乗=100、10の3乗=1000で、1にゼロが4個で1万(10の4乗)、ゼロが8個で1億(10の8乗・・1万の1万倍)、ゼロが12個で1兆(10の12乗・・1億の1万倍)、ゼロが16個で1京(10の16乗・・1億の1億倍)、というようにゼロが4個ずつ増えていくに従い、桁の呼びかたが変わっていく。因みに10の68乗が無量という呼び方になるが、まさに天文的数字が続くことになる。ゼロの数が多くなると(数字が多くなればなるほど)読み取りにくくなる。日本本来の数字の桁取りは4桁区切りだった。
例えば1(兆),2345(億),6789(万),0123などと4桁区切りで表示すれば、大変読みやすい。これを1,234,567,890,123と3桁区切りの表示にすれば、読み辛いこと甚だしい。

             ◇       ◇       ◇
英語の場合、基数は 1(one)~10(ten)・・だが、日本式ルールに従えば11=ten-one、12=ten-two、13=ten-three、・・、19=ten-nine、20=two-tensとなるはずだ。ところが実際は、11=Eleven、12=Twelve、13=Thirteen、・・、19=Nineteen、20=Twentyとなる。21以上になると日本式ルールに近くなり、Twenty one、22=twenty two、23=Twenty threeとなる。
11=Eleven、12=Twelveは序数(物の順序を表現する言い方で、英語の"first","second",
"third"はそれぞれ「1」「2」「3」の序数)から来ているもので、基数と序数の混在がやや複雑化させている要因だ。1000=1 thousand (10の3乗)、百万=1million (10の6乗)、10億=1billion (10の9乗)と3桁ごとに位が上がっていく。即ち西欧式は3桁区切りであり、西洋式読み方にマッチしたもの。これを日本式に読むと大変読み辛い表記方法となる。

             ◇       ◇       ◇
しかし、近年は役所やビジネスの文書でも、マスコミや学校教育でも西欧方式の3桁区切りが浸透、日本本来のソロバンでさえ3桁区切りの仕様となった。本来優れた日本式数字の表記・呼称は今や西欧式のそれに駆逐され、3桁区切りがグローバル・スタンダードとなってしまった。PCまでに組み込まれてしまい、もはや4桁区切りに戻すことは不可能だ。しかし、このことは現在日本社会においても、相通じるものがあるように思える。日本は優れた技術や業績を残すことはあっても、それが世界的標準になることは少ない。何か特別な問題を抱えているのだろうか。

 

2018年5月27日 (日)

続・名字の話 (珍名・奇名篇)

名字のことを調べてみると、難読名字、洒落の利いた名字、成り立ちが気になる名字、中には珍名・奇名など、千差万別であるところが面白い。

手始めに数字に関わる名字から
四月一日 (わたぬき)  ・八月一日(ほづみ・ほうづみ) ・五百旗頭 (いおきべ)
一寸木 (ちょっき) ・四十物 (あいもの・よそもの)  ・四十住 (あいずみ)
五十里 (いかり) ・一青 (ひとと、しとと、しともと--女性歌手がいたね)
 (いちじく)--頓智だね。  ・一口 と書いて(いもあらい)--何でだろう。
一番合戦 (いちまかせ) ・四十万 (しじま) ・七五三 (しめ)
四十八願 (よいなら・よそなら) ・廿 (つづら・はたち) ・百目鬼 (どうめき)
百目木 (どめき・どうめき) ・八十一隣 (くくり)--9×9=81だから?
・「」と書いて、(いちたらず)、百に一足りないからか、(つくも)とも。99だから?


季節・天候・風流などに関わる名字
明保能 (あけぼの) ・月見里(やまなし) ・雲母(きらら) ・天生目(なばため)
月日 (おちふり)  ・日日(ひび) ・年年(ねんねん) ・明日(ぬくい あけひ)
栗花落 (つゆ、つゆり)--栗の花が落ちる頃、梅雨入りの季節だそうで。
水流 (つる、みながれ、みずなが) ・行方 (なめかた) ・小鳥遊 (たかなし)


知り合いにいた名前です。
我那覇 (がなは) ・喜舎場 (きしゃば) ・行天 (ぎょうてん)
・瀬〆  (せしめ)  ・青天目(なばため) ・横目 (よこめ)


その他気になる名前
 (そよぎ)  ・王来王家 (おくおか)  ・先生(せんぷ、 せんじょう)
鷹左右 (たかそう) ・ (もぎき、えだなし) ・忽滑谷(ぬかりや そかつや)


めでたいけど、名前がプレッシャーに?
恋仲  ・幸運  ・宝船(ほうせん) ・国宝 ・極楽  ・寿 ・極意 ・天命


こういう名前の家に生まれたら悲劇?
名無し (ななし) ・住所 (じゅうしょ) ・珍名(ちんな) ・南蛇井(なんじゃい)
浮気 (うき、ふけ) ・金玉 (きんぎょく)  ・女陰 (めかげ)
色摩 (しかま、しきま、いろま)  ・助平 (すけへい)
三分一所 (サブイッショ)--北海道出身か?
いやはや、日本にはいろんな名前があるものですな。

2018年5月19日 (土)

名字の話

NHKのレギュラー番組「日本人のおなまえっ!」を時々見ている。最近はテーマが枯渇したのか、蕎麦屋さんには、なぜ「~~庵」という名前が多いのか、とかラーメン屋にはなぜ、「来々軒」という名前が多いのか、といった名字以外の謂われなどについても取り上げている。それはそれで雑学的知識としては面白いのだが、12万もあるといわれる日本人の名字を全部紹介する訳にもいかず、過去に放送したように、名字の多さベストテンとか、成立の謂われ、レア名字、読み方困難名字など、ある程度絞って、「へーなるほど、そうだったのか」と興味を持たれるようなテーマでなくては長続きしないだろうし、それにも限界があるだろうと思っていた。
                ◇          ◇           ◇
以前、家紋・姓氏・地名研究家の丹羽基二氏が著した「日本の苗字」に接したことがある。著者によると、日本には約12万語の苗字があるという。こんなに多い国は世界にはない。なぜこんなに多くなったのか。その理由を著者の丹羽氏が挙げた。
①日本には苗字に関するタブーがないこと。
②漢字を組み合わせれば無限に造成できること。
③明治8年以降、だれでも苗字を名乗らなければならなくなったこと。
などを挙げる。③に関しては勝手に珍姓をつける者が現れ、例えば「天皇陛下」と付けたものが現れたりした。役場の方では、さすがにこれは止めさせたが、それなら「陛下」ならいいだろうと主張するので、村長が間に入って「陛上」で落着。この姓は「はしがみ」と読んだとある。

        ◇          ◇           ◇ 
日本の苗字」によると、古くからの文献をもとに統計をとってみたら、8割以上が地名からきていることが明確になった。残り2割は、役職、職業、建造、用具、動植物、種々な曰く、略称などによるものだったという。また、漢字の当て字が多いことが様々に変化する要因にもなっている。「窪田」などは「くぼ地の田」から起こった地名だが、「久保田」などの瑞祥名に変化するといったケースだ。丹羽氏は「日本の苗字」を編集して分かったことをいくつか列挙した。
①約100の姓で姓全体の37%を占め、約5000の姓で92%に達する。
②同音異字の姓は一つの発音に対し約二通りある。
③ほぼ300の漢字で姓全体の90%を書き表せる。

④姓に用いられる漢字は約3500字である。
         ◇          ◇           ◇
ところで、上記の文章の中にも、ミョージは「名字」とも「苗字」とも書き表される。どう違うのだろうか。広辞苑によると一般的には「名字」が正当で、「名字帯刀」などと使われる。もともと「名字」は代々伝わるその家の名。姓。家名。古代では氏の名、氏と姓(かばね)とを合わせた名とある。では「苗字」とは何か。もともと「苗裔」(ビョウエイ)からきた言葉で、末裔などと同様に、末の血筋、遠い血統の子孫などの意味。現在では「名字」と全く同じ意味で使われているが、常用外の用法であるという。

2018年5月14日 (月)

誰も見ていない、誰も聞いていない大相撲放送の話

大相撲夏場所が13日から始まった。日本人横綱稀勢の里が7場所連続休場したのは残念だが、元大横綱大鵬の孫、悪役横綱朝青龍の甥など話題の取的たちも初土俵に立ち、当分相撲ブームは続きそうだ。
         ◇         ◇         ◇
昭和20年6月というから、太平洋戦争の終局に向かって、日本全土がB-29の爆撃の恐怖に晒されていた頃の話である。すべてのスポーツが「決戦非常措置」のため、禁止されていたが、大相撲だけは国技ということで軍部の庇護もあり、年2回、春場所(1月)、夏場所(5月)の興行が許されていた。ところが昭和20年3月10日の大空襲で下町は焼け野原になり、両国国技館も巨大な鉄骨の塊になってしまった。そこで急遽5月の夏場所は神宮外苑の相撲場に変更して挙行することになった。
                    ◇         ◇         ◇
ところがまたしても初日の払暁、B29は山の手一帯を狙って大空襲・・・。止むを得ず神宮外苑も延期となって、被災の跡片付けが済んだ国技館で、6月7日から7日間、非公式で行われることになった。何故、非公開にしてまでも相撲興行を強行したのだろうか?
ひとつには、まだ空襲の危険もあったが、国技の伝統と番付け残したかった相撲協会の執念もあった。ところが実際は軍部の影響が強かったからだと言うのだ。

          ◇         ◇         ◇
当時のNHKは通常の国内放送の他に、海外向け(対敵謀略放送)と東亜放送(日本軍の占領地域向け・・・いずれも短波放送)を流していた。つまりこの放送は海外(敵)に向かって、「日本本土では決戦下でも余裕綽々、相撲を楽しんでいるよ」 と誇示するためだったらしい。観客は一人もいない、国内では誰も聞いていないでは、いかにも不自然ではないか?ところが、観客の歓声・拍手、館内のざわめきなどは録音しているものがあるから、いかようにも合成できたと言うのだ。
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この時相撲放送を担当したのが、後年「話の泉」などを司会したかのNHK藤倉修一アナウンサーだった。後年「国内では誰一人聞いていない相撲放送を、観客が一人もいない空っぽの、しかも廃墟のようなところで、口角泡を飛ばして喋っていた私は、悲しいピエロみたいなもので、今考えれば滑稽な話だった」と、昭和55年に刊行された「話題が豊かになる本」に寄稿されている。因みにこの場所は東横綱、照国、安芸の海、西横綱、羽黒山、双葉山の四横綱がそろって出場した。

2018年5月 7日 (月)

融和のためなら、なんでもありか?

スウェーデンで行われていた卓球の世界選手権で、日本女子チームは準決勝で北朝鮮または韓国の勝者と対戦することになっていた。ところが急に南と北が対戦を取りやめ、合同チーム「コリア」を結成した。スポーツの世界では公平な状況でしのぎを削ってこそ、競技は成り立つ。会場に日本チームと合同チームが入場した後に「合同チーム結成」のアナウンスがあったと言う。
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これには対戦相手(日本)は勿論だが、試合を楽しみにしていた観客にとっても面食らう事態となった。公平を期したルールであるはずなのに、韓国と北朝鮮は南北融和を優先して対戦は行わず、体力を温存して準決勝に駒を進めた。結果、日本は南北合計10人の中から選ばれた最強選手3人と戦うことになった。しかし、結果的に近年実力を高めた日本女子は、伊藤、石川、平野の活躍で、3-0で勝利。決勝へ進出したが、宿敵中国には3-1で敗戦。前回に続き銀メダル獲得となった。合同チーム「コリア」は10名が銅メダルだって。
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日本選手の活躍には大いに拍手を送りたいところだが、どうも釈然としない。大会が始まる前に合同チームで参加するという事前表明があれば、納得できる。しかし今回の異例の対応が「友好のためにはお咎めなし」として黙認されるのであれば、例えば今後、南北が別々に参加する団体競技において、競技が始まってから、チームの調子を見て、「この種目は有望だから『合同チーム』を結成しよう」とする悪しき前例にならないだろうか。「融和のためだから、いいだろう」なんて恣意的な運営が罷り通ることになりかねない
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平昌オリンピックから始まった「南北融和・平和友好」ムードは「錦の御旗」なんだろうか。平和・友好に名を借りたスポーツの政治利用と言えなくもない。というのも過去何度となく、金大中、盧武鉉の時代に北との政治的融和ムードを作り、緊張緩和が実現したが、長続きしなかった。体制の相違、思惑の相違、結局スポーツの融和はそれらに翻弄されてきた。そうした歴史の繰り返しがあったからこそ、今回の南北融和も俄かには信じがたい
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国連の一致した制裁が功を奏したのか、北朝鮮に大きな変化をもたらし、朝鮮半島が俄かに融和ムードを演じている。南北首脳会談を皮切りに6か国の首脳が、個別にまたは複数で、朝鮮半島の非核化を巡り、自国の利益第一に虚々実々の駆け引きを行う。まずは朝鮮戦争終結の宣言、平和協定の締結、完全かつ検証可能で不可逆的な非核化、在韓米軍撤退を巡る北・韓・米のさや当て、拉致問題の解決・・・・いずれも難問ばかり。
そんな中、国際的制裁の継続を主張する日本を名指しで、口汚く罵っているが、こんな言葉を聞いている限りは、どこが融和的になったのか、やっぱり本質は変わっていないと思わざるを得ない。こんな情勢にあって、トランプ大統領と金正恩、それに文在寅が今年のノーベル平和賞の第一候補に上がったというが、マジだとすれば噴飯ものだ

2018年5月 2日 (水)

西郷隆盛余話

明治31年(1898)12月18日、上野公園で維新の英傑西郷隆盛像の除幕式が行われた。故郷鹿児島の城山で自決後(1877年)、賊軍の将の汚名を着せられから実に21年が経過していた。幕末から明治維新にかけて功があった志士たちの霊を祀るため建てられて靖国神社には、吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作など維新殉教者として合祀されている。ところが明治維新の最高の功労者とされた西郷隆盛は没後140年が経っても祀られていない。(太平洋戦争のA級戦犯東條英機が祀られているのにどうしたことか?)
          ◇          ◇          ◇
明治新政府は、薩摩士族に担がれて反政府軍の総大将となった西郷隆盛軍が起こした西南戦争(明治10年)により、賊軍の将として靖国神社に合祀することを拒否してきた。ところが、もっとも西郷を理解していたとされる勝海舟が明治17年、西郷南洲七回忌の際遺族の為に名誉回復の運動を起した。特に西郷の人柄を愛した明治天皇は「逆臣」となった西郷を憐れみ、名誉回復に踏み切る。明治天皇にとっては西郷も木戸も大久保も「建国の父祖共同体」の第一人者に他ならない。だからこそ、成り行きによる政治的敗北から、西郷を救い出さねばならなかった(御厨貴氏)。こうして、黒田清隆らの努力もあって、明治22年(1889)2月11日、大日本的国憲法発布に伴い、大赦で赦されることになった。

Photo 上野公園:西郷隆盛像 

話を西郷像の除幕式に戻そう。当日は名士800余名が参集して盛大に式典が執り行われた。万座の中で銅像が姿を現したときに、糸子未亡人が「うちの人はこげん人じゃなか!」と叫んだ話が有名なエピソードとして残っている。このとき隣に列席していた実弟の西郷従道が糸子未亡人の足をギュッと踏みつけ、「似てようが、似ていまいが人様の善意を損ねるようなことを言ってはいけない」と諭したという。
           ◇          ◇          ◇
この糸さんの発言については、「主人は浴衣姿で散歩なんかしなかった」と言う意味と、(実際は故郷鹿児島での狩りの姿を表現したもの)単純に顔が違うと言う意味だったとする説がある。写真嫌いで通した西郷の顔写真は1枚も残っていないが、そのためか、西郷の死後、多くの肖像画が残されている。中でもイタリアのキヨッソーネが描いた肖像画は死後の翌年、西郷とゆかりの深い人からのアドバイスを参考に、比較的西郷に似ていたとされる西郷従道と従姉弟の大山巌の顔を合成して描いたと言われ、西郷の遺族や親族が「この肖像画こそ翁(隆盛)そのもの」と確認し、夫人の糸子に贈呈されたという。

Photo_2 
キヨッソーネ 画::西郷隆盛肖像画
           
銅像の制作は明治26年に、今の芸大に委託された。同校はできるだけ精巧な像を作るべく、要望風采の情報を集めた。特に実弟の従道氏の写真を参考にしたというが、銅像の現物を見ると、キヨッソーネが描いた肖像画よりも、元横綱武蔵丸に似ているように思える。糸子さんが「うちの人はこげん人じゃなか!」と言ったのはこの辺のことを指しているのか? 最後に勝海舟が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌を掲げる。

 「
濡れ衣を 干さんともせで 子供らの なすがままに 果てし君かな

2018年4月23日 (月)

明治150年の歴史から何を学ぶか(最終回)

自分がまだ小学生だった頃、明治生まれの祖母からよく聞かされた。「東郷さん(元帥)は偉かった。みんなを元気にさせた。昭和の戦争は酷かった。原爆でなにもかも焼けてしまった」と。明治・大正・昭和を生きた平凡な一庶民の慨嘆だが、案外本質を突いているかもしれない。
              ◇          ◇           ◇
明治という時代は、江戸時代という長い時間をかけて生育された果実が収穫される時期だった。江戸時代の様々な遺産が明治という時代に「理想」として実った時期だったというのが司馬さんの明治観である。しかし、明治の人が目指したのは「坂の上の雲」だったから、いくら坂を上ってもそれは掴めないものであり、上りつめた坂はやがて下りになる。白い雲を掴めないまま坂を下っていくと、その下には昭和という恐ろしい泥沼があったと磯田氏は解説する。
           ◇          ◇           ◇
その泥沼の中から頭を出した鬼胎が昭和戦争を惹き起こし、日本を破滅に引きずり込んだ。日本人は戦争で「神州不滅」とか「七生報告」とかいったおよそ合理的でない思想をさんざん吹き込まれ酷い目に遭った。技術の向上より、不都合な事実を注視せず、深く考えないで不合理が罷り通る。極端に言えば明治の頃の装備のまま、第二次大戦の敗戦まで行ってしまった。戦後、その反作用か、目に見える即物的なものを強く信じる合理的な世代が生じて、高度経済成長期に、一気に物質文明至上主義に向かった。
           ◇          ◇           ◇
高度経済成長は確かに日本人の生活を豊かにした。だが、物欲は満たされたものの、何か大切なものを失ってしまった。国民全員が「坂の上の白い雲」を目指すような大きな目標は無くなった。公共心が希薄になり、自己中心的な生き方が主流となった今、この国は何を目指し、どこへ行こうとしているのか。司馬さんが言い残しかったこと、それは「公共心が非常に高い人間が、自分の私利私欲ではなく、合理主義とリアリズムを発揮した時に、凄まじいことを成し遂げる」、逆に「公共心だけの人間がリアリズムを失った時、行く着く先はテロリズムや自殺にしかならない」ということではなかったのかと磯田氏は言う。
           ◇          ◇           ◇
【おわりに】 2001年11月、司馬さんの居宅があった東大阪市に「司馬遼太郎記念館」が開館された。半年後の翌年5月、ここを訪れた。司馬さんは1996年2月72歳で没したが、1989年、66歳の時、「21世紀に生きる君たちへ」、「洪庵のたいまつ」を書き残し、小学校の国語の教科書に掲載された。司馬さんが膨大な執筆活動の最後に、推敲に推敲を重ねて執筆したという。まさに我々に残された遺書とも言うべき作品であり、早速1冊買い求めた。
未来を思う司馬さんの真摯な姿勢が随所に滲み出ている。何の脈絡もないが、蜀の丞相孔明が主君劉備の後主劉禅に残した「出師の表」が思い起こされた。磯田さんは「司馬遼太郎で学ぶ日本史」の「おわりに」の部分で、次のように書いている。「20世紀までの日本の歴史と日本人を書いた司馬遼太郎さんが言い残したことを21世紀に生きる我々が鏡として、未来に備えていくことが大切だ」と。まさにその通りだと痛感させられたことが、このシリーズを締めくくるあたっての感想である。(終)

2018年4月17日 (火)

明治150年の歴史から何を学ぶか(6)

【統帥権とは】
前回の最後の部分で統帥権のことに触れたが、統帥とは、軍隊を統べ率いることである。大日本帝国憲法第11条には、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とある。これを根拠に軍部は統帥事項を内閣や議会の管轄から独立させ、昭和に入ってからは、陸海軍当局が天皇直結であると拡大解釈して、暴走したことがことの本質だった。元来は、政争の道具として軍隊に利用されないように、元勲が企図したものだった。明治の頃にはまだ元老たちが健在で、軍が勝手な行動をとらないよう睨みを利かせていたから、鬼っ子が暴れ出すまでには至らなかった。


統帥権は慣習法的に軍令機関(陸軍参謀本部・海軍軍令部)の専権とされ、シビリアン・コントロールの概念に欠けていた。統帥権に基づいて軍令機関は帷幕上奏権(天皇に直接上奏する権利)を有すると解し、軍部の政治力の源泉となった。それ故、帝国陸軍及び海軍は立法府や行政府に対し、一切責任を負わないものとされたから、およそ民主主義の概念からかけ離れたものであった。昭和に入ってからは、軍部がこれをおおいに利用し、「陸海軍は大元帥である天皇から直接統帥を受けるものであって、政府の指示に従う必要はない」とした。これに口を挟もうならば「統帥干犯」として、恫喝された。満州事変から始まる一連の軍部の大暴走は政府の決定など全く無視した行動で、神国思想を糧に次第に鬼っ子が肥大化していき、結局日本を崩壊させてしまった異胎の時代となった。

◆明治憲法は今の憲法と同様に、立法・行政・司法の三権分立を謳った憲法だったが、昭和に入って変質した。統帥権が次第に独立し始め、ついには三権の上に立ってしまった。司馬さんは日本を「鬼胎」にした正体ーそれはドイツから輸入して大きく育ってしまったもの、即ち「統帥権」だったと喝破する。軍の統帥権の実際の運用にあたっては、当然ながら政府と議会がチェックする必要があった。しかし、そのチェック機能も統帥権を盾にした軍部の前には効かなくなっていった。軍部は統帥に関する決定権はすべて天皇にあると主張、ところが実際は天皇自身が決められる訳ではなく、軍の中枢を成す部課長が決定。軍はその結果を天皇に上奏するだけで、天皇の意思をしばしば無視して押し切っていった。

◆軍部はついには「統帥権は無限・無謬・神聖」と唱え始め、三権を超越した存在であると考え始めた。こうなると、日本国の胎内に別の国家ー統帥権国家ーができたともいえる」と司馬さんは述べている。また参謀本部所属の将校しか、閲覧を許されなかった秘密文書の復刻本「統帥参考」を入手した司馬さんが、その中の一節を次のように紹介している。
統帥権本質ニシテ、其作用ハ超法規的ナリ 云々」と。まさに昭和の日本が破滅に向かって一直線に進んでいった本質を炙りだしている。「間違った思想・考え方が一国を滅ぼす」という教えを現代に生きる我々は身を挺して学ばなければならない。(続く)

2018年4月 9日 (月)

防衛省の日報問題の本質を探る(下)

◆憲法は前文の中で、「日本は恒久平和を求め、世界の平和を維持するため、同じ価値観を持つ国際社会の一員として、名誉ある地位を目指す」という趣旨を謳っている。PKOは国連決議に基づく、国際的な平和や安全を維持するための活動であり、専守防衛を標榜する日本が自衛隊を海外に派遣する根拠ともなっている。派遣する際は国会の承認を得ることになっているが、憲法9条の「戦争放棄、戦力及び交戦権の否認」との整合性を盾に、必ずしも国論が一致しないという問題点を孕んでいることがこの背景にある。

◆自衛隊法の規定には、「首相が『内閣を代表して、最高の指揮監督権』を持つ。内閣の一員である防衛相が常時自衛隊を統括する」とある。これ即ちシビリアンコントロールであり、実力組織である軍隊の上に文民が立って統制することを明確化している。防衛省の主な任務は「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛すること」と規定されている。戦闘能力を持つ武器を合法的に使用できる国内最大の実力組織だ。問題はこれだけの組織と実力を持ちながら、あい矛盾する憲法9条との整合性において、70年経っても未だその地位が明確になっていないことにある。

◆自衛隊は「自衛のための必要最小限度の実力を持つもの」と定義されているが、この「必要最小限度」とは実に曖昧なもの、どう捉えるかは人により異なるもので、周辺諸国の状況の変化や技術の変革等で変動するものだ。防衛費は2018年度予算案では6年連続で増額し、5兆1911億円。4年連続で過去最高を更新した。世界の軍事費では日本は上位8位にランクされている。これを多すぎると見るか、いや足りないと見るか、これらの説明が足りないから、多くの国民は防衛問題、安全保障問題に戸惑いを覚え、コンセンサスを得にくい状況となっている。

◆安倍総理は自衛隊を憲法に明記するよう提案した。しかし、その必死さが伝わってこない。まずは防衛問題に限らず、すべての問題に対して追及から逃げるのではなく、真摯に向き合うことだ。野党を説得できずして、国民がついてくるだろうか
内閣の命運をかけてでも、「何故PKOが必要なのか」、「自衛隊はどうあるべきなのか」、「日本の安全保障をどうすべきなのか」、「何故憲法9条の改正が必要なのか」、こうした基本的な問題について、反対勢力を説得し、国民の理解を得る努力をすべきだ。最終的には安全保障に関する国民のコンセンサスを築かなければ、いつまで経ってもこの国の防衛問題は解決できない。自衛隊の身分が憲法上明確になっていないからこそ、廻り回って末端の自衛隊員の日報問題にまで行きつくことになる。国防に関する明確な指針がなく、法的な整備も不十分なまま、国民と政府と自衛隊の信頼関係を築くことができるのか。これなくして自衛隊が本当に機能するのか、いかにも心許ない。(本稿終り)

2018年4月 8日 (日)

防衛省の日報問題の本質を探る(中)

◆自衛隊制服組と防衛省背広組の身分・待遇格差については先に触れたが、今回の日報問題の発覚過程を見ると、制服組の背広組に対する反乱ではないかと思える節がある。「南スーダンPKOで起きた銃撃戦」の日報に書かれた「戦闘」という表現がキーワードになっていたと言う。現場では攻撃を受けたら止むを得ず自衛のために応戦することはあるだろうが、それを「戦闘」と表現した。これが建前上不味いとされ、報告書を隠蔽しようとした一因となった。何故ならPKOにおいては自衛隊は戦闘しないという建前になっており、国会等で野党から追及されるからだ。しかし、この隠蔽が発覚し、結局「資料を出せ、無い」の騒ぎとなり、「犯人扱い」された自衛隊制服組は防衛省の不正をマスコミに流す事で反撃に出た。最終的に当時の稲田防衛大臣、事務次官、陸上幕僚長が退任や辞任に追い込まれた。

◆結果的に陸自が事務次官のクビを取ったが、騒動はこれで収まらず、官僚による報復や制服組のさらなる暴露合戦が続いている。問題は「戦闘」を「衝突」などと言い繕って、その場しのぎで胡麻化したことだ。野党も露見した隠ぺい問題を取り上げ、文民統制が機能していないなどと追及する。すべて正直にありのままに国民に説明し、理解を求めていればこれほど大きな問題になっていなかっただろう。但し、防衛機密上公開できないこともあり得る。それらは一定の時間が経ったら公表する。そのルールを明確にすることが大切だ。しかし、これらは問題の本質ではない。

◆そもそも何故、PKO(国連平和維持活動)に参加するのか。もともと日本は憲法上の制約があり、自衛隊の海外派遣は憲法違反の疑義ありとして、消極的だった。1990年代初頭において、湾岸戦争が勃発すると、日本の国際貢献が問われる事態となった。日本は軍隊を出せない代わりに巨額の資金を供出した。これが結局「日本は金は出すが、汗をかかない」と不興を買った。その結果、1991年に自衛隊の掃海艇がペルシャ湾に派遣され、一応の面目を保った。こうしたチグハグな態度の根本要因は、最終的に憲法問題に帰するところが大きい。

◆1990年代以降の海外情勢の変化に伴い、日本では1992年にPKO協力法を成立させた。派遣にあたっては、紛争当事者間の停戦合意、紛争当事者の受け入れ同意、武器使用は必要最小限とする、などの「参加五原則」を設けた。しかし、実際の現場では、「原則が歪められたから、ハイ、サヨナラ」とはいかないこともあるだろう。現場では参加各国との協調姿勢も大切だ。PKOは、情勢により危険を伴う任務もあり、日本が今後どのように関与していくかについて、実際に経験した制服組の意見も呈して、議論されなければならない。要は現地指揮官と統幕、防衛省、官邸との信頼関係こそ大切だ。(続く)

2018年4月 7日 (土)

防衛省の日報問題の本質を探る(上)

◆「隠蔽されていた陸上自営隊の日報が見つかった」、「シビリアンコントロールが機能していない」、「大問題だ!」などと政界もメディアも大騒ぎだ。確かに組織内の文書管理の在り方、情報公開のルール等はより明確化され、遵守されなければならない。しかし、ことの本質はこれだけの話ではない。本質はどこにあるのか、探ってみたい。
そもそも自衛隊に問題があった場合、現場の最高責任者である陸・海・空・
幕僚監部や統合幕僚長を国会に招致して喚問すればよい。ところが、どういう訳だか自衛官は委員会等に参加できないと言う不文律があると言う。どうもこの辺に問題の本質に迫る糸口がありそうだ。

◆防衛省に関連する問題の国会答弁や、予算割り振り、人事権などの重要事項の決定権は防衛者の背広組、即ち官僚が行っており、彼らは現場に立つ自衛官制服組)よりも偉いと勘違いしているようだ。それでいて、いざというときには命を張って、最前列に立たされるのは制服組であり、防衛省と自衛隊は明確に区別されている。何故なら自衛隊は旧日本軍の残滓と位置づけされ、未だその名残を引きずっていると見られているという。

◆信じられない話だが、自衛隊がクーデターなどを起こさないように監視しているのが防衛省であり、文官(キャリア官僚)や背広組と呼ばれている連中だと言う。これが文民統制、いわゆるシビリアンコントロールの実態であり、防衛官僚は自衛隊を見下し、自衛隊は防衛官僚を憎悪している図式が生じる。なお、国家安全保障会議には防衛省の官僚(背広組)は参加しているが、幕僚等の自衛官は参加していないという。これが安全保障会議の実態だとすれば、国の防衛は本当に大丈夫なのかと疑わざるを得ない。

◆こうした歪んだ軍隊を作ってしまったのが、戦後の日本政府と国会、引いては「日本国憲法」に行きつく。だから国会喚問で、自衛隊制服組を招致しないのは、与党にも野党にも何か不味いことがあるのかと勘繰りたくなる。国防という国の基本政策に、軍の経験もない事務屋さんが防衛省のトップになるのは、「日本軍を復活させないため」という大義名分があるという理屈らしい。背広組と制服組の身分・待遇格差は、2015年に紛糾した安保関連法で変更された。背広組と制服組を対等に位置付けた改正防衛省設置法で、制服組は安全保障政策の意思決定に関与できるようになった。とは言っても、防衛省のトップである事務次官にはまだ防衛官僚しかなれないという。(続く)

2018年4月 1日 (日)

明治150年の歴史から何を学ぶか(5)

【明治の時代に孕んだ鬼っ子】
司馬さんは明治と言う時代を一つの理想として書いたが、昭和については「この国のかたち」の中で、「昭和ひとケタから20年の敗戦までの10数年は、長い日本史の中でもとくに非連続の時代だった」と書いている。また別の箇所では、「日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦に至る40年間は、日本史の連続性から切断された異胎の時代」だった、また「明治憲法下の法体制が、不覚にも孕んでしまった鬼胎のような感じ」とも表現している。

◆磯田氏は社会の病とは、潜伏期間があり、昭和に入ってとんでもない戦争に突入してしまう。その病根は、明治という時代に生じていたのではないか、明治という時代はまだそれが発症していない「幸せな潜伏期間」だったのではないかと述べている。明治の日本は合理的な法に基づく近代的な国家を目指していたが、一方で、「日本の軍には天の助けがある、天皇の率いる軍は天祐を保有しているから、神風も吹き、負けたことがない」と考えていた。国をあげて超自然的な力を信じ教えていたところに病根の潜伏期間」があり、司馬さんが言う「鬼っ子」を孕んでいたとの表現と同義語ではなかろうか。

【鬼胎の時代が生まれた背景】
その背景には「ナショナリズムの暴走」があった。「日露戦争の勝利が日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない」と司馬さんは言う。日露戦争で、辛うじて勝利した日本はギリギリの条件で講和せざるを得なかった。国際情勢を知らない大衆やメディアは、「平和の値段が安すぎる、講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ」と叫んだ。ついには3万人が結集して、日比谷焼き打ち事件が起こった。司馬さんはこれを「魔の季節への出発点」という。日清戦争の勝利で中国に強い優越感を持ち、今度は白人の国に勝ったことで、「世界の一等国の仲間入りした」と、日本人は次第に傲慢になり、謙虚さを失っていった

【ドイツスタイルの導入と統帥権】
昭和の戦争が日本を破滅に導いた最大の要因は、明治憲法制定時に国家制度も、軍の方式もドイツのスタイルを導入したことであり、憲法に「統帥権」を掲げたことである。明治国家は草創期には陸軍はフランス式、海軍はイギリスに学ぶという多様性があった。ところが国家モデルの目標を設定するに当たり、大隈重信らが推す英国方式(国会中心の政府)と伊藤博文が推すプロイセン・ドイツ方式が対立した。結局、欧州では後進国ながら、皇帝を中心に強固な軍事力で急速に国力を高めて、近代化を遂げたドイツを日本がモデルにすべきだとした伊藤が大隈らを追放したことによって日本の方向が定まった。明治14年の政変だが、もし大久保利通があと4年生きていたら、どういう判断をしただろうか。

◆ドイツは軍隊が国家を持っていると言われる程の軍国主義国家であり、参謀本部制度という独特の制度で、軍が国家を動かすと言われる程だった。日本が軍事的に強い国家の法制度を取り入れたのだから、軍が国家を左右して破綻に至ったドイツと同じ運命を辿ったのは自明の理と言えよう。明治22年憲法発布時にはまったくドイツ式に変貌し、その作戦思想が日露戦争の陸軍でも有効だったということで、ますますドイツへの傾斜が進んでいった。(続く)

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