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2018年5月19日 (土)

名字の話

NHKのレギュラー番組「日本人のおなまえっ!」を時々見ている。最近はテーマが枯渇したのか、蕎麦屋さんには、なぜ「~~庵」という名前が多いのか、とかラーメン屋にはなぜ、「来々軒」という名前が多いのか、といった名字以外の謂われなどについても取り上げている。それはそれで雑学的知識としては面白いのだが、12万もあるといわれる日本人の名字を全部紹介する訳にもいかず、過去に放送したように、名字の多さベストテンとか、成立の謂われ、レア名字、読み方困難名字など、ある程度絞って、「へーなるほど、そうだったのか」と興味を持たれるようなテーマでなくては長続きしないだろうし、それにも限界があるだろうと思っていた。
                ◇          ◇           ◇
以前、家紋・姓氏・地名研究家の丹羽基二氏が著した「日本の苗字」に接したことがある。著者によると、日本には約12万語の苗字があるという。こんなに多い国は世界にはない。なぜこんなに多くなったのか。その理由を著者の丹羽氏が挙げた。
①日本には苗字に関するタブーがないこと。
②漢字を組み合わせれば無限に造成できること。
③明治8年以降、だれでも苗字を名乗らなければならなくなったこと。
などを挙げる。③に関しては勝手に珍姓をつける者が現れ、例えば「天皇陛下」と付けたものが現れたりした。役場の方では、さすがにこれは止めさせたが、それなら「陛下」ならいいだろうと主張するので、村長が間に入って「陛上」で落着。この姓は「はしがみ」と読んだとある。

        ◇          ◇           ◇ 
日本の苗字」によると、古くからの文献をもとに統計をとってみたら、8割以上が地名からきていることが明確になった。残り2割は、役職、職業、建造、用具、動植物、種々な曰く、略称などによるものだったという。また、漢字の当て字が多いことが様々に変化する要因にもなっている。「窪田」などは「くぼ地の田」から起こった地名だが、「久保田」などの瑞祥名に変化するといったケースだ。丹羽氏は「日本の苗字」を編集して分かったことをいくつか列挙した。
①約100の姓で姓全体の37%を占め、約5000の姓で92%に達する。
②同音異字の姓は一つの発音に対し約二通りある。
③ほぼ300の漢字で姓全体の90%を書き表せる。

④姓に用いられる漢字は約3500字である。
         ◇          ◇           ◇
ところで、上記の文章の中にも、ミョージは「名字」とも「苗字」とも書き表される。どう違うのだろうか。広辞苑によると一般的には「名字」が正当で、「名字帯刀」などと使われる。もともと「名字」は代々伝わるその家の名。姓。家名。古代では氏の名、氏と姓(かばね)とを合わせた名とある。では「苗字」とは何か。もともと「苗裔」(ビョウエイ)からきた言葉で、末裔などと同様に、末の血筋、遠い血統の子孫などの意味。現在では「名字」と全く同じ意味で使われているが、常用外の用法であるという。

2018年5月14日 (月)

誰も見ていない、誰も聞いていない大相撲放送の話

大相撲夏場所が13日から始まった。日本人横綱稀勢の里が7場所連続休場したのは残念だが、元大横綱大鵬の孫、悪役横綱朝青龍の甥など話題の取的たちも初土俵に立ち、当分相撲ブームは続きそうだ。
         ◇         ◇         ◇
昭和20年6月というから、太平洋戦争の終局に向かって、日本全土がB-29の爆撃の恐怖に晒されていた頃の話である。すべてのスポーツが「決戦非常措置」のため、禁止されていたが、大相撲だけは国技ということで軍部の庇護もあり、年2回、春場所(1月)、夏場所(5月)の興行が許されていた。ところが昭和20年3月10日の大空襲で下町は焼け野原になり、両国国技館も巨大な鉄骨の塊になってしまった。そこで急遽5月の夏場所は神宮外苑の相撲場に変更して挙行することになった。
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ところがまたしても初日の払暁、B29は山の手一帯を狙って大空襲・・・。止むを得ず神宮外苑も延期となって、被災の跡片付けが済んだ国技館で、6月7日から7日間、非公式で行われることになった。何故、非公開にしてまでも相撲興行を強行したのだろうか?
ひとつには、まだ空襲の危険もあったが、国技の伝統と番付け残したかった相撲協会の執念もあった。ところが実際は軍部の影響が強かったからだと言うのだ。

          ◇         ◇         ◇
当時のNHKは通常の国内放送の他に、海外向け(対敵謀略放送)と東亜放送(日本軍の占領地域向け・・・いずれも短波放送)を流していた。つまりこの放送は海外(敵)に向かって、「日本本土では決戦下でも余裕綽々、相撲を楽しんでいるよ」 と誇示するためだったらしい。観客は一人もいない、国内では誰も聞いていないでは、いかにも不自然ではないか?ところが、観客の歓声・拍手、館内のざわめきなどは録音しているものがあるから、いかようにも合成できたと言うのだ。
                      ◇         ◇         ◇
この時相撲放送を担当したのが、後年「話の泉」などを司会したかのNHK藤倉修一アナウンサーだった。後年「国内では誰一人聞いていない相撲放送を、観客が一人もいない空っぽの、しかも廃墟のようなところで、口角泡を飛ばして喋っていた私は、悲しいピエロみたいなもので、今考えれば滑稽な話だった」と、昭和55年に刊行された「話題が豊かになる本」に寄稿されている。因みにこの場所は東横綱、照国、安芸の海、西横綱、羽黒山、双葉山の四横綱がそろって出場した。

2018年5月 7日 (月)

融和のためなら、なんでもありか?

スウェーデンで行われていた卓球の世界選手権で、日本女子チームは準決勝で北朝鮮または韓国の勝者と対戦することになっていた。ところが急に南と北が対戦を取りやめ、合同チーム「コリア」を結成した。スポーツの世界では公平な状況でしのぎを削ってこそ、競技は成り立つ。会場に日本チームと合同チームが入場した後に「合同チーム結成」のアナウンスがあったと言う。
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これには対戦相手(日本)は勿論だが、試合を楽しみにしていた観客にとっても面食らう事態となった。公平を期したルールであるはずなのに、韓国と北朝鮮は南北融和を優先して対戦は行わず、体力を温存して準決勝に駒を進めた。結果、日本は南北合計10人の中から選ばれた最強選手3人と戦うことになった。しかし、結果的に近年実力を高めた日本女子は、伊藤、石川、平野の活躍で、3-0で勝利。決勝へ進出したが、宿敵中国には3-1で敗戦。前回に続き銀メダル獲得となった。合同チーム「コリア」は10名が銅メダルだって。
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日本選手の活躍には大いに拍手を送りたいところだが、どうも釈然としない。大会が始まる前に合同チームで参加するという事前表明があれば、納得できる。しかし今回の異例の対応が「友好のためにはお咎めなし」として黙認されるのであれば、例えば今後、南北が別々に参加する団体競技において、競技が始まってから、チームの調子を見て、「この種目は有望だから『合同チーム』を結成しよう」とする悪しき前例にならないだろうか。「融和のためだから、いいだろう」なんて恣意的な運営が罷り通ることになりかねない
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平昌オリンピックから始まった「南北融和・平和友好」ムードは「錦の御旗」なんだろうか。平和・友好に名を借りたスポーツの政治利用と言えなくもない。というのも過去何度となく、金大中、盧武鉉の時代に北との政治的融和ムードを作り、緊張緩和が実現したが、長続きしなかった。体制の相違、思惑の相違、結局スポーツの融和はそれらに翻弄されてきた。そうした歴史の繰り返しがあったからこそ、今回の南北融和も俄かには信じがたい
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国連の一致した制裁が功を奏したのか、北朝鮮に大きな変化をもたらし、朝鮮半島が俄かに融和ムードを演じている。南北首脳会談を皮切りに6か国の首脳が、個別にまたは複数で、朝鮮半島の非核化を巡り、自国の利益第一に虚々実々の駆け引きを行う。まずは朝鮮戦争終結の宣言、平和協定の締結、完全かつ検証可能で不可逆的な非核化、在韓米軍撤退を巡る北・韓・米のさや当て、拉致問題の解決・・・・いずれも難問ばかり。
そんな中、国際的制裁の継続を主張する日本を名指しで、口汚く罵っているが、こんな言葉を聞いている限りは、どこが融和的になったのか、やっぱり本質は変わっていないと思わざるを得ない。こんな情勢にあって、トランプ大統領と金正恩、それに文在寅が今年のノーベル平和賞の第一候補に上がったというが、マジだとすれば噴飯ものだ

2018年5月 2日 (水)

西郷隆盛余話

明治31年(1898)12月18日、上野公園で維新の英傑西郷隆盛像の除幕式が行われた。故郷鹿児島の城山で自決後(1877年)、賊軍の将の汚名を着せられから実に21年が経過していた。幕末から明治維新にかけて功があった志士たちの霊を祀るため建てられて靖国神社には、吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作など維新殉教者として合祀されている。ところが明治維新の最高の功労者とされた西郷隆盛は没後140年が経っても祀られていない。(太平洋戦争のA級戦犯東條英機が祀られているのにどうしたことか?)
          ◇          ◇          ◇
明治新政府は、薩摩士族に担がれて反政府軍の総大将となった西郷隆盛軍が起こした西南戦争(明治10年)により、賊軍の将として靖国神社に合祀することを拒否してきた。ところが、もっとも西郷を理解していたとされる勝海舟が明治17年、西郷南洲七回忌の際遺族の為に名誉回復の運動を起した。特に西郷の人柄を愛した明治天皇は「逆臣」となった西郷を憐れみ、名誉回復に踏み切る。明治天皇にとっては西郷も木戸も大久保も「建国の父祖共同体」の第一人者に他ならない。だからこそ、成り行きによる政治的敗北から、西郷を救い出さねばならなかった(御厨貴氏)。こうして、黒田清隆らの努力もあって、明治22年(1889)2月11日、大日本的国憲法発布に伴い、大赦で赦されることになった。

Photo 上野公園:西郷隆盛像 

話を西郷像の除幕式に戻そう。当日は名士800余名が参集して盛大に式典が執り行われた。万座の中で銅像が姿を現したときに、糸子未亡人が「うちの人はこげん人じゃなか!」と叫んだ話が有名なエピソードとして残っている。このとき隣に列席していた実弟の西郷従道が糸子未亡人の足をギュッと踏みつけ、「似てようが、似ていまいが人様の善意を損ねるようなことを言ってはいけない」と諭したという。
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この糸さんの発言については、「主人は浴衣姿で散歩なんかしなかった」と言う意味と、(実際は故郷鹿児島での狩りの姿を表現したもの)単純に顔が違うと言う意味だったとする説がある。写真嫌いで通した西郷の顔写真は1枚も残っていないが、そのためか、西郷の死後、多くの肖像画が残されている。中でもイタリアのキヨッソーネが描いた肖像画は死後の翌年、西郷とゆかりの深い人からのアドバイスを参考に、比較的西郷に似ていたとされる西郷従道と従姉弟の大山巌の顔を合成して描いたと言われ、西郷の遺族や親族が「この肖像画こそ翁(隆盛)そのもの」と確認し、夫人の糸子に贈呈されたという。

Photo_2 
キヨッソーネ 画::西郷隆盛肖像画
           
銅像の制作は明治26年に、今の芸大に委託された。同校はできるだけ精巧な像を作るべく、要望風采の情報を集めた。特に実弟の従道氏の写真を参考にしたというが、銅像の現物を見ると、キヨッソーネが描いた肖像画よりも、元横綱武蔵丸に似ているように思える。糸子さんが「うちの人はこげん人じゃなか!」と言ったのはこの辺のことを指しているのか? 最後に勝海舟が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌を掲げる。

 「
濡れ衣を 干さんともせで 子供らの なすがままに 果てし君かな

2018年4月23日 (月)

明治150年の歴史から何を学ぶか(最終回)

自分がまだ小学生だった頃、明治生まれの祖母からよく聞かされた。「東郷さん(元帥)は偉かった。みんなを元気にさせた。昭和の戦争は酷かった。原爆でなにもかも焼けてしまった」と。明治・大正・昭和を生きた平凡な一庶民の慨嘆だが、案外本質を突いているかもしれない。
              ◇          ◇           ◇
明治という時代は、江戸時代という長い時間をかけて生育された果実が収穫される時期だった。江戸時代の様々な遺産が明治という時代に「理想」として実った時期だったというのが司馬さんの明治観である。しかし、明治の人が目指したのは「坂の上の雲」だったから、いくら坂を上ってもそれは掴めないものであり、上りつめた坂はやがて下りになる。白い雲を掴めないまま坂を下っていくと、その下には昭和という恐ろしい泥沼があったと磯田氏は解説する。
           ◇          ◇           ◇
その泥沼の中から頭を出した鬼胎が昭和戦争を惹き起こし、日本を破滅に引きずり込んだ。日本人は戦争で「神州不滅」とか「七生報告」とかいったおよそ合理的でない思想をさんざん吹き込まれ酷い目に遭った。技術の向上より、不都合な事実を注視せず、深く考えないで不合理が罷り通る。極端に言えば明治の頃の装備のまま、第二次大戦の敗戦まで行ってしまった。戦後、その反作用か、目に見える即物的なものを強く信じる合理的な世代が生じて、高度経済成長期に、一気に物質文明至上主義に向かった。
           ◇          ◇           ◇
高度経済成長は確かに日本人の生活を豊かにした。だが、物欲は満たされたものの、何か大切なものを失ってしまった。国民全員が「坂の上の白い雲」を目指すような大きな目標は無くなった。公共心が希薄になり、自己中心的な生き方が主流となった今、この国は何を目指し、どこへ行こうとしているのか。司馬さんが言い残しかったこと、それは「公共心が非常に高い人間が、自分の私利私欲ではなく、合理主義とリアリズムを発揮した時に、凄まじいことを成し遂げる」、逆に「公共心だけの人間がリアリズムを失った時、行く着く先はテロリズムや自殺にしかならない」ということではなかったのかと磯田氏は言う。
           ◇          ◇           ◇
【おわりに】 2001年11月、司馬さんの居宅があった東大阪市に「司馬遼太郎記念館」が開館された。半年後の翌年5月、ここを訪れた。司馬さんは1996年2月72歳で没したが、1989年、66歳の時、「21世紀に生きる君たちへ」、「洪庵のたいまつ」を書き残し、小学校の国語の教科書に掲載された。司馬さんが膨大な執筆活動の最後に、推敲に推敲を重ねて執筆したという。まさに我々に残された遺書とも言うべき作品であり、早速1冊買い求めた。
未来を思う司馬さんの真摯な姿勢が随所に滲み出ている。何の脈絡もないが、蜀の丞相孔明が主君劉備の後主劉禅に残した「出師の表」が思い起こされた。磯田さんは「司馬遼太郎で学ぶ日本史」の「おわりに」の部分で、次のように書いている。「20世紀までの日本の歴史と日本人を書いた司馬遼太郎さんが言い残したことを21世紀に生きる我々が鏡として、未来に備えていくことが大切だ」と。まさにその通りだと痛感させられたことが、このシリーズを締めくくるあたっての感想である。(終)

2018年4月17日 (火)

明治150年の歴史から何を学ぶか(6)

【統帥権とは】
前回の最後の部分で統帥権のことに触れたが、統帥とは、軍隊を統べ率いることである。大日本帝国憲法第11条には、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とある。これを根拠に軍部は統帥事項を内閣や議会の管轄から独立させ、昭和に入ってからは、陸海軍当局が天皇直結であると拡大解釈して、暴走したことがことの本質だった。元来は、政争の道具として軍隊に利用されないように、元勲が企図したものだった。明治の頃にはまだ元老たちが健在で、軍が勝手な行動をとらないよう睨みを利かせていたから、鬼っ子が暴れ出すまでには至らなかった。


統帥権は慣習法的に軍令機関(陸軍参謀本部・海軍軍令部)の専権とされ、シビリアン・コントロールの概念に欠けていた。統帥権に基づいて軍令機関は帷幕上奏権(天皇に直接上奏する権利)を有すると解し、軍部の政治力の源泉となった。それ故、帝国陸軍及び海軍は立法府や行政府に対し、一切責任を負わないものとされたから、およそ民主主義の概念からかけ離れたものであった。昭和に入ってからは、軍部がこれをおおいに利用し、「陸海軍は大元帥である天皇から直接統帥を受けるものであって、政府の指示に従う必要はない」とした。これに口を挟もうならば「統帥干犯」として、恫喝された。満州事変から始まる一連の軍部の大暴走は政府の決定など全く無視した行動で、神国思想を糧に次第に鬼っ子が肥大化していき、結局日本を崩壊させてしまった異胎の時代となった。

◆明治憲法は今の憲法と同様に、立法・行政・司法の三権分立を謳った憲法だったが、昭和に入って変質した。統帥権が次第に独立し始め、ついには三権の上に立ってしまった。司馬さんは日本を「鬼胎」にした正体ーそれはドイツから輸入して大きく育ってしまったもの、即ち「統帥権」だったと喝破する。軍の統帥権の実際の運用にあたっては、当然ながら政府と議会がチェックする必要があった。しかし、そのチェック機能も統帥権を盾にした軍部の前には効かなくなっていった。軍部は統帥に関する決定権はすべて天皇にあると主張、ところが実際は天皇自身が決められる訳ではなく、軍の中枢を成す部課長が決定。軍はその結果を天皇に上奏するだけで、天皇の意思をしばしば無視して押し切っていった。

◆軍部はついには「統帥権は無限・無謬・神聖」と唱え始め、三権を超越した存在であると考え始めた。こうなると、日本国の胎内に別の国家ー統帥権国家ーができたともいえる」と司馬さんは述べている。また参謀本部所属の将校しか、閲覧を許されなかった秘密文書の復刻本「統帥参考」を入手した司馬さんが、その中の一節を次のように紹介している。
統帥権本質ニシテ、其作用ハ超法規的ナリ 云々」と。まさに昭和の日本が破滅に向かって一直線に進んでいった本質を炙りだしている。「間違った思想・考え方が一国を滅ぼす」という教えを現代に生きる我々は身を挺して学ばなければならない。(続く)

2018年4月 9日 (月)

防衛省の日報問題の本質を探る(下)

◆憲法は前文の中で、「日本は恒久平和を求め、世界の平和を維持するため、同じ価値観を持つ国際社会の一員として、名誉ある地位を目指す」という趣旨を謳っている。PKOは国連決議に基づく、国際的な平和や安全を維持するための活動であり、専守防衛を標榜する日本が自衛隊を海外に派遣する根拠ともなっている。派遣する際は国会の承認を得ることになっているが、憲法9条の「戦争放棄、戦力及び交戦権の否認」との整合性を盾に、必ずしも国論が一致しないという問題点を孕んでいることがこの背景にある。

◆自衛隊法の規定には、「首相が『内閣を代表して、最高の指揮監督権』を持つ。内閣の一員である防衛相が常時自衛隊を統括する」とある。これ即ちシビリアンコントロールであり、実力組織である軍隊の上に文民が立って統制することを明確化している。防衛省の主な任務は「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛すること」と規定されている。戦闘能力を持つ武器を合法的に使用できる国内最大の実力組織だ。問題はこれだけの組織と実力を持ちながら、あい矛盾する憲法9条との整合性において、70年経っても未だその地位が明確になっていないことにある。

◆自衛隊は「自衛のための必要最小限度の実力を持つもの」と定義されているが、この「必要最小限度」とは実に曖昧なもの、どう捉えるかは人により異なるもので、周辺諸国の状況の変化や技術の変革等で変動するものだ。防衛費は2018年度予算案では6年連続で増額し、5兆1911億円。4年連続で過去最高を更新した。世界の軍事費では日本は上位8位にランクされている。これを多すぎると見るか、いや足りないと見るか、これらの説明が足りないから、多くの国民は防衛問題、安全保障問題に戸惑いを覚え、コンセンサスを得にくい状況となっている。

◆安倍総理は自衛隊を憲法に明記するよう提案した。しかし、その必死さが伝わってこない。まずは防衛問題に限らず、すべての問題に対して追及から逃げるのではなく、真摯に向き合うことだ。野党を説得できずして、国民がついてくるだろうか
内閣の命運をかけてでも、「何故PKOが必要なのか」、「自衛隊はどうあるべきなのか」、「日本の安全保障をどうすべきなのか」、「何故憲法9条の改正が必要なのか」、こうした基本的な問題について、反対勢力を説得し、国民の理解を得る努力をすべきだ。最終的には安全保障に関する国民のコンセンサスを築かなければ、いつまで経ってもこの国の防衛問題は解決できない。自衛隊の身分が憲法上明確になっていないからこそ、廻り回って末端の自衛隊員の日報問題にまで行きつくことになる。国防に関する明確な指針がなく、法的な整備も不十分なまま、国民と政府と自衛隊の信頼関係を築くことができるのか。これなくして自衛隊が本当に機能するのか、いかにも心許ない。(本稿終り)

2018年4月 8日 (日)

防衛省の日報問題の本質を探る(中)

◆自衛隊制服組と防衛省背広組の身分・待遇格差については先に触れたが、今回の日報問題の発覚過程を見ると、制服組の背広組に対する反乱ではないかと思える節がある。「南スーダンPKOで起きた銃撃戦」の日報に書かれた「戦闘」という表現がキーワードになっていたと言う。現場では攻撃を受けたら止むを得ず自衛のために応戦することはあるだろうが、それを「戦闘」と表現した。これが建前上不味いとされ、報告書を隠蔽しようとした一因となった。何故ならPKOにおいては自衛隊は戦闘しないという建前になっており、国会等で野党から追及されるからだ。しかし、この隠蔽が発覚し、結局「資料を出せ、無い」の騒ぎとなり、「犯人扱い」された自衛隊制服組は防衛省の不正をマスコミに流す事で反撃に出た。最終的に当時の稲田防衛大臣、事務次官、陸上幕僚長が退任や辞任に追い込まれた。

◆結果的に陸自が事務次官のクビを取ったが、騒動はこれで収まらず、官僚による報復や制服組のさらなる暴露合戦が続いている。問題は「戦闘」を「衝突」などと言い繕って、その場しのぎで胡麻化したことだ。野党も露見した隠ぺい問題を取り上げ、文民統制が機能していないなどと追及する。すべて正直にありのままに国民に説明し、理解を求めていればこれほど大きな問題になっていなかっただろう。但し、防衛機密上公開できないこともあり得る。それらは一定の時間が経ったら公表する。そのルールを明確にすることが大切だ。しかし、これらは問題の本質ではない。

◆そもそも何故、PKO(国連平和維持活動)に参加するのか。もともと日本は憲法上の制約があり、自衛隊の海外派遣は憲法違反の疑義ありとして、消極的だった。1990年代初頭において、湾岸戦争が勃発すると、日本の国際貢献が問われる事態となった。日本は軍隊を出せない代わりに巨額の資金を供出した。これが結局「日本は金は出すが、汗をかかない」と不興を買った。その結果、1991年に自衛隊の掃海艇がペルシャ湾に派遣され、一応の面目を保った。こうしたチグハグな態度の根本要因は、最終的に憲法問題に帰するところが大きい。

◆1990年代以降の海外情勢の変化に伴い、日本では1992年にPKO協力法を成立させた。派遣にあたっては、紛争当事者間の停戦合意、紛争当事者の受け入れ同意、武器使用は必要最小限とする、などの「参加五原則」を設けた。しかし、実際の現場では、「原則が歪められたから、ハイ、サヨナラ」とはいかないこともあるだろう。現場では参加各国との協調姿勢も大切だ。PKOは、情勢により危険を伴う任務もあり、日本が今後どのように関与していくかについて、実際に経験した制服組の意見も呈して、議論されなければならない。要は現地指揮官と統幕、防衛省、官邸との信頼関係こそ大切だ。(続く)

2018年4月 7日 (土)

防衛省の日報問題の本質を探る(上)

◆「隠蔽されていた陸上自営隊の日報が見つかった」、「シビリアンコントロールが機能していない」、「大問題だ!」などと政界もメディアも大騒ぎだ。確かに組織内の文書管理の在り方、情報公開のルール等はより明確化され、遵守されなければならない。しかし、ことの本質はこれだけの話ではない。本質はどこにあるのか、探ってみたい。
そもそも自衛隊に問題があった場合、現場の最高責任者である陸・海・空・
幕僚監部や統合幕僚長を国会に招致して喚問すればよい。ところが、どういう訳だか自衛官は委員会等に参加できないと言う不文律があると言う。どうもこの辺に問題の本質に迫る糸口がありそうだ。

◆防衛省に関連する問題の国会答弁や、予算割り振り、人事権などの重要事項の決定権は防衛者の背広組、即ち官僚が行っており、彼らは現場に立つ自衛官制服組)よりも偉いと勘違いしているようだ。それでいて、いざというときには命を張って、最前列に立たされるのは制服組であり、防衛省と自衛隊は明確に区別されている。何故なら自衛隊は旧日本軍の残滓と位置づけされ、未だその名残を引きずっていると見られているという。

◆信じられない話だが、自衛隊がクーデターなどを起こさないように監視しているのが防衛省であり、文官(キャリア官僚)や背広組と呼ばれている連中だと言う。これが文民統制、いわゆるシビリアンコントロールの実態であり、防衛官僚は自衛隊を見下し、自衛隊は防衛官僚を憎悪している図式が生じる。なお、国家安全保障会議には防衛省の官僚(背広組)は参加しているが、幕僚等の自衛官は参加していないという。これが安全保障会議の実態だとすれば、国の防衛は本当に大丈夫なのかと疑わざるを得ない。

◆こうした歪んだ軍隊を作ってしまったのが、戦後の日本政府と国会、引いては「日本国憲法」に行きつく。だから国会喚問で、自衛隊制服組を招致しないのは、与党にも野党にも何か不味いことがあるのかと勘繰りたくなる。国防という国の基本政策に、軍の経験もない事務屋さんが防衛省のトップになるのは、「日本軍を復活させないため」という大義名分があるという理屈らしい。背広組と制服組の身分・待遇格差は、2015年に紛糾した安保関連法で変更された。背広組と制服組を対等に位置付けた改正防衛省設置法で、制服組は安全保障政策の意思決定に関与できるようになった。とは言っても、防衛省のトップである事務次官にはまだ防衛官僚しかなれないという。(続く)

2018年4月 1日 (日)

明治150年の歴史から何を学ぶか(5)

【明治の時代に孕んだ鬼っ子】
司馬さんは明治と言う時代を一つの理想として書いたが、昭和については「この国のかたち」の中で、「昭和ひとケタから20年の敗戦までの10数年は、長い日本史の中でもとくに非連続の時代だった」と書いている。また別の箇所では、「日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦に至る40年間は、日本史の連続性から切断された異胎の時代」だった、また「明治憲法下の法体制が、不覚にも孕んでしまった鬼胎のような感じ」とも表現している。

◆磯田氏は社会の病とは、潜伏期間があり、昭和に入ってとんでもない戦争に突入してしまう。その病根は、明治という時代に生じていたのではないか、明治という時代はまだそれが発症していない「幸せな潜伏期間」だったのではないかと述べている。明治の日本は合理的な法に基づく近代的な国家を目指していたが、一方で、「日本の軍には天の助けがある、天皇の率いる軍は天祐を保有しているから、神風も吹き、負けたことがない」と考えていた。国をあげて超自然的な力を信じ教えていたところに病根の潜伏期間」があり、司馬さんが言う「鬼っ子」を孕んでいたとの表現と同義語ではなかろうか。

【鬼胎の時代が生まれた背景】
その背景には「ナショナリズムの暴走」があった。「日露戦争の勝利が日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない」と司馬さんは言う。日露戦争で、辛うじて勝利した日本はギリギリの条件で講和せざるを得なかった。国際情勢を知らない大衆やメディアは、「平和の値段が安すぎる、講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ」と叫んだ。ついには3万人が結集して、日比谷焼き打ち事件が起こった。司馬さんはこれを「魔の季節への出発点」という。日清戦争の勝利で中国に強い優越感を持ち、今度は白人の国に勝ったことで、「世界の一等国の仲間入りした」と、日本人は次第に傲慢になり、謙虚さを失っていった

【ドイツスタイルの導入と統帥権】
昭和の戦争が日本を破滅に導いた最大の要因は、明治憲法制定時に国家制度も、軍の方式もドイツのスタイルを導入したことであり、憲法に「統帥権」を掲げたことである。明治国家は草創期には陸軍はフランス式、海軍はイギリスに学ぶという多様性があった。ところが国家モデルの目標を設定するに当たり、大隈重信らが推す英国方式(国会中心の政府)と伊藤博文が推すプロイセン・ドイツ方式が対立した。結局、欧州では後進国ながら、皇帝を中心に強固な軍事力で急速に国力を高めて、近代化を遂げたドイツを日本がモデルにすべきだとした伊藤が大隈らを追放したことによって日本の方向が定まった。明治14年の政変だが、もし大久保利通があと4年生きていたら、どういう判断をしただろうか。

◆ドイツは軍隊が国家を持っていると言われる程の軍国主義国家であり、参謀本部制度という独特の制度で、軍が国家を動かすと言われる程だった。日本が軍事的に強い国家の法制度を取り入れたのだから、軍が国家を左右して破綻に至ったドイツと同じ運命を辿ったのは自明の理と言えよう。明治22年憲法発布時にはまったくドイツ式に変貌し、その作戦思想が日露戦争の陸軍でも有効だったということで、ますますドイツへの傾斜が進んでいった。(続く)

2018年3月31日 (土)

東京一極集中が日本を滅ぼす!?

◆今朝の新聞が、27年後の2045年には、総人口は1億642万人(2015年比2000万人減)と予測し、65歳以上の高齢者が全人口の36.8%を占めると報じていた。このこと自体、いろんな報道で見聞きしたことで、さほど驚くには当たらない。問題は東京を除く全道府県で人口減となり、全国平均で16.3%の減、最も減少率が高い秋田県で-41.2%、ついで青森県-37.0%、山形、高知県で31.6%と続く。増加するのは東京都だけで+0.7%、以下沖縄県-0.4%、愛知県-7.8%、神奈川県-8.9%、埼玉県-10.2%となり、東北地方の大幅減が目立つ。一方、東京近県の減少率は比較的低く、要すれば東京一極集中が、今より際立って顕著になると予想しているのだ。

◆このことは日本全体にとって果たしてよいことなのか。地方の人口が減り、高齢化が進むということは、活力が失われ、日本全体の地盤沈下が進み、東京だけが突出して過密化が進むことを意味する。教育、就職、生活・福祉などの環境が充実すればするほど、地方の若者は東京を目指す傾向がますます強くなる。これが果たして日本人にとって幸せなことに繋がるのだろうか。
日本の国土は南北に長い。自然にも恵まれている。地方の風土に合った歴史と文化を育んできて、今の日本がある。大震災、津波、大型台風、高潮、富士山爆発など大災害が起こったときに、一極集中していればいるほど、被害は甚大で復旧復興が困難になる。それが分っていても対処的な対策だけで、抜本的な対策を講じようとはしない。


◆地方、なかでも離島、沿岸部は警備が手薄になり、中国・朝鮮半島、ロシアなどの領土領海侵犯に対する沿岸防備も地方の衰退・人口減のもとでは心もとない。40年、50年先の日本を見据え、抜本的な対策を講じなければこのままではいびつな不健康な国になってしまうだろう。このためには過疎対策だけではなく、日本の将来像を見つめ、均衡ある発展のために道州制も視野に入れて、最高の叡知を結集し、強力な権限をそのPTに与えることだ。明治は45年かけて大変革を成し遂げた。

◆ハイテク、AI情報化が進んだ今、何も東京一極集中である必要はない。企業の本社機能も、大学・研究機関も、放送局のキー局も、首都機能(国会、官僚機構)さえも、あるいは遷都も含めて、将来像を描くことだ。日本はそろそろ制度疲労脳軟化症に陥っている。今、何か抜本的な手を打たないと、このまま東京一極集中で肥大化が進むと、日本は滅ぶだろう。もっともそのときには自分はこの世にはいないことは確かだ。
(2018年エイプリルフールの前日に)

2018年3月27日 (火)

佐川氏証人喚問に思うこと

◆「森友学園」問題で、佐川宜寿・前国税庁長官の国会証人喚問は、3/27日衆参予算委員会で国民注視の中、計4時間に亘って開かれた。
決裁文書の改ざんについては総理や麻生財務大臣、官邸の関与等は強く否定され、当時の理財局内でやったもので、その責任は全てトップであった自分にあると深く陳謝した。一方、国有地売却の経緯、政治家の関与等については、「刑事訴追の恐れがあるので、答弁を差し控えたい」の一点張りで押し通した。


◆これは全く想定内のことであり、野党がいくら非難してしてみても、国民が納得できなくても、ある意味限界を示したものだ。そもそも野党が寄ってたかって、真相究明だと意気込んでも、過去の例を見るまでもなく、野党に限らず国会議員にその能力があるとは甚だ疑問であるからだ。野党は終了後、時間が足りなかったと嘆く。最も長い民進党でも20数分、加えて野党の数が多いから参院で8会派、衆院で7会派の論客(?)が最低一人6分ほどの質問時間で、入れ替わり立ち代わり、質問席に立つ。

◆質問時間の不足を嘆く前に、何故そうなるのか考えているのだろうか。野党が合同で、質問者の代表を一人か、二人に絞り、集中して質問すれば時間不足を嘆くことにはならない。ところが野党は例え数人の会派であっても、喚問の場は「自分たちの存在を示す場、自党の絶好のPRの場、手柄を発揮する場」とまさに政治ショー化が見え見えだからだ。従って例え質問時間が短くなっても、他党にその時間を譲るなどという寛大なことは逆立ちしても出来はしない。質問時間が短いことはもとを糺せば、野党が分裂に分裂を重ね、細分化したことにあることを自覚しているだろうか。

◆そもそも、不正や、法律違反の疑義ある問題が発生した場合、国会議員自ら真相究明にあたり、長時間を費やして、国会の本来の機能に支障を来たすようなことがあってよいのだろうか。問題点を取り上げるまでは国会のひとつの機能として否定されるものではないが、より踏み込んだ究明は専門家である司直の手に委ねるべきではなかろうか。犯罪にまでには至らぬが、グレーゾーンである案件の場合、調査能力のある専門家を各党が選び、第三者委員会を編成、国政調査権を付与して、「刑事訴追の恐れがあるから答弁を控える」などと拒否するような答弁ができないような体制を作るべきだろう。それにしても日本の政治のお粗末さは何とかならないものか。

2018年3月21日 (水)

ガリバーと三浦按針の話 (下)

◆では、何故三浦按針がガリバーとされた伝承が残るのか。17~18世紀のヨーロッパでは、風刺的架空旅行文学が一種の流行を生んでいた。実在の三浦按針は多くの書簡を祖国に送り、その書簡集が1625年に刊行されている。また1690年に日本に渡航し、2年間滞在したドイツ出身でオランダ船船医となったケンペの「廻国奇観」(1712年刊)や「日本誌」、その他にもいくつかの日本情報は英国にも伝わっていた。特にケンペルの「廻国奇観」は、鎖国政策が安定した高い文化と国造りに望ましい効果をもたらしている事例として、「ポジティブな日本像」として伝播したようだ。

◆スウィフトが「巨人の国」や「馬の国」など他国との交流の無い島国を理想郷に近いイメージで描いているのも、こうした影響があったのではないかと言う説もある。三浦按針やケンペルらの日本紀行を題材とした情報は、「ガリバー旅行記」に直接、間接に反映されている。按針が横須賀、浦賀、平戸等にに痕跡を残していること、またケンペルが船医であったことなどはその一例だが、彼らの日本での行動をもとに、スウィフトが類い稀なる想像力を駆使して、虚・実を絡ませ、日本におけるガリバー像を構成したことは間違いないだろ。

◆ガリバーは日本紀行の中で、「踏み絵」を迫られるが、英国人であるガリバーは、その儀式を免除して欲しいと申し出る。「踏み絵を躊躇するオランダ人など初めて見た」と怪訝な顔をされたとあるが、何とかうまく自分をオランダ人として偽り通して、長崎からアムステルダム行の船に乗り込むことができ、イギリスに帰国したとある。こうした記述は、日本の事情によほど精通していないと書けるものではなく、按針やケンペルの日本情報がおおいに役立ったものと思われる。

◆なお、徳川幕府は1639年、西欧との結びつきを断ち、長崎の出島に築いたオランダ商館を除いて鎖国時代に入った。この間のわずか20年ほどの短い期間でW・アダムスは徳川家康の庇護を受け、三浦按針という日本人として活躍した。その後100年近く経って、母国でガリバーという架空の人物の一分身として復活したとも言えるのではなかろうか。ついでながら原作者のスウィフトは故国アイルランド、及びイングランドの外に出ていた形跡は見られない。しかし、創作する上での想像力や、時の英国の政治、社会、文明に対する鋭い風刺は稀有なものである。スウィフトは晩年精神病を患い、1745年77歳でこの世を去った。(本稿終)

2018年3月20日 (火)

ガリバーと三浦按針の話 (上)

ガリバー旅行記の主人公「ガリバー」は実は三浦按針だったという話は、三浦半島の横須賀、浦賀、観音崎あたりに伝承として残っている。これは全く根拠のない話ではなく、歴史を辿れば面白い事実が浮かび上がってくる。

◆『ガリバー旅行記』はアイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトによって、1713年に執筆開始され、1726年59歳の時に完成した風刺小説である。原題は、『船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリバーによる、世界の諸僻地への旅行記四篇』という長いもの。子供向け絵本でも有名な「小人国」は第一篇に、「巨人国」は第二篇に登場し、第三篇で四つの島国を旅した後、日本に上陸する。因みに第四篇で「馬の国」が登場する。登場するすべての国が架空の島国であるのに対し、日本のみ実在の国であるところが面白い。

◆「旅行記」では第三篇の最後の部分5ページほどに日本旅行記が登場する。物語では、日本渡航の前1709年5月、ラグナダ国王の親書を携えて出航。日本の東端の港ザモスキに着いた後、江戸で皇帝(徳川将軍)に謁見した。その後Nangasac(長崎?)まで護送され、同年6月オランダ船で出国し、イギリスに帰国したと記述されている。このザモスキと言う地が、横須賀市の観音崎ではないかと言うのである。

◆三浦按針はもともとウィリアム・アダムスという英国人。オランダ船リーフデ号の航海士だったが、関ケ原の戦いの半年前、1600年3月、豊後の国(大分県)臼杵に漂着した。この時オランダ人航海士ヤン・ヨーステンも同時に漂着し、後に二人とも家康の家臣に召し抱えられた。ヤン・ヨーステンは現在の八重洲の地名に由来にもなったことで有名だが、御朱印貿易に従事した。W・アダムスは、家康の外交顧問として重用され、また西洋式帆船を完成させた功績等により、250石取の旗本に取り立てられ、名字帯刀を許されて、相模国三浦郡(現横須賀市逸見)に所領と邸を拝した

◆家康はこの頃、観音崎に隣接する浦賀湊を貿易港に指定し、南蛮貿易としてスペイン商船のみ入港を認めた。マニラ・メキシコなどとの貿易が目的だったからである。按針の尽力により1604年にスペイン商船が初めて入港し、その都度、西国から承認が浦賀に急行し、浦賀は国際貿易港として賑わったという。また按針は1609年、平戸の商館開設に関わり、オランダとの貿易が開始された。家康死後(1616)は秀忠、家光と次第に貿易から手を引き、鎖国政策へと舵を切った。按針は次第に居場所も窮屈になり、晩年は平戸で暮らして、故国へ帰ることを望んだが叶わず、1620年、波乱の生涯を閉じた。(続く)

2018年3月17日 (土)

明治150年の歴史から何を学ぶか(4)

【格調高いリアリズムと精神重視の非合理性】
◆司馬さんが目指すリーダー像とは、国を誤らせない、集団を誤らせない、個人を不幸にしないリーダーということに尽きる。その対極にあるのが、合理主義とは相容れない偏頗な「思想」にかぶれ、仲間内だけでしか通用しない異常な行動をとる人や集団だと言う。日本人の中には勝敗や結果に関係なく、忠義の思想・動機が大事だと言うような情緒に感動する人がいて、そうした史実はいくつもあるが、幕末の長州藩の一部にもその傾向が見られ、勤皇攘夷にかぶれたあまり、禁門の変では天皇を守るどころか、結果的に朝敵にされてしまった。

◆司馬さんはこの時の長州の「思想」や「ドグマ」に偏った組織の在り方、精神性に、後の昭和の陸軍の原型を見ていた気がすると書き残している。昭和の陸軍が日本を破滅に導いた遠因は、明治37~38年(1904~05)の日露戦争に辛勝した日本軍そのものに内包されていた。日露戦争は枝葉を切り取れば、「合理性とリアリズムを重視した体質」と、「忠義の思想や神州不滅などのドグマ」という相反する思想が葛藤しつつも、前者のリアリズムを重んじる姿勢が上回り、辛うじて勝ち取ったという戦争だった。

◆明治の日本は列強に比べれば小さな国で、「弱者の自覚」があり、ある種の謙虚さが残っていた。そうして国民が「坂の上の白い雲」を目指して一心に坂道を上って行った時代だった。文明開化と言う形で、小さな蕾が開花を迎えようとするこの時期に、日本は海外の動向、特にロシアの脅威に無縁で済ます訳にはいかなくなった。「日露戦争」こうした世界情勢の中で勃発したが、司馬さんは「坂の上の雲」の中で、秋山真之乃木希典という人物を対比させて、リアリズムについて述べている。

◆どちらも「格調の高い精神で支えられたリアリズム」を体現しているのだが、秋山は明るいリアリズムで合理的、一方、乃木は暗い、公のための滅私という不合理なリアリズムを体現している。明治という時代はこの二つのタイプの日本人がいて、国家が成り立っていたと書き分けている。司馬さんは乃木という、国民からはその「格調高く愚直な精神」が非常に愛された人物を通して、明治のリアリズムの「」の部分を、しっかりと見つめた。

◆秋山は、「どんな武器を渡されてもそれで戦うのは軍人の本分である。しかし兵器の優劣が戦争の結果を左右する」と、日本海海戦の勝利のあとに故郷松山で語っている。「どんな兵器でも死ぬ気で戦います」というリアリズムを持って戦えば、勝てる公算が高くなる。然し、「死んでも戦います」という人が、リアリズムを失えばそれは「自殺」になる。昭和の歴史はそれが当たり前になってしまった。司馬さんが言いたかったことは、まさに「格調高い精神に支えられたリアリズムと合理主義を合わせ持っていたならば、あのような愚かな戦争に突入することはなかったであろう」と言うことだろう。

2018年3月11日 (日)

憲法9条改正前に、「前文」を見直そう (下)

◆憲法前文に書かれている内容は、高尚なことが述べられているとは誰が読んでも、何となく分かる。しかし、日本語としてはどうも不自然だ。しっくりこないとはこういう文章を言うのだろう。それもそのはず、その理由はこの憲法の成立過程に起因するからだ。終戦間もない昭和21年2月3日、GHQ司令部は憲法草案作成を指示。2月13日GHQは松本憲法試案を拒否。別途GHQが作成した草案を政府に手交した。それをもとに3月6日幣原内閣は「憲法改正草案要項」を発表。その間わずか20日足らずだった。国の根幹をなす憲法が追っ付け仕事で、翻訳調、またあちこちの文献をコピペしたような跡は見て取れる。ついでながら、この年11月3日吉田茂内閣のもと、新憲法が公布された。

この憲法の前文を要約すれば
【国民主権】 主権は国民にあり、国民は正当な選挙で選ばれた国会議員のもとで行動する。 国政は国民の厳粛な信託のもとに成り立つ。 権威は国民に、権力は国民の代表者に、福利は国民が享受する。 自由と人権を尊重する。
【恒久平和】 日本国民は恒久の平和を念願し、政府は戦争の惨禍を繰り返さない。 平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼し、その信頼のもとに日本国民の安全と生存を保持していく。 日本国民は平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去すべく努力する。 同じ価値観を持つ国際社会の一員として、名誉ある地位を目指す。 日本国民は、全世界の国民が、恐怖と貧困を免かれ、平和の中で生存する権利を有することを認める。
【国際協調】 どこの国も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない。 この政治道徳は普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務である。
【憲法遵守】 この憲法に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。
と言うようなことになろうか。


◆この憲法は、一国平和主義に陥らず、「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼し、その信頼のもとに日本国民の安全と生存を保持していく」と規定しているが、いささか諸国民(諸外国)の性善説に偏り過ぎていないだろうか。またこの憲法前文は誰が読んでも不自然であることは確かだろう。その憲法を分かりやすく平易な文章で表現することすら許されないとするならば、考えることを放棄せよと言っていることと同義語だ。むしろ日本語の見本となるような表現に改めることに躊躇すること勿れと言いたい。

◆一番問題なのは、日本と言う国は年号ができた「大化元年」から現憲法公布まで1300年の歴史を有するにも拘らず、その間の歴史は全く無かったかのように一切触れていないことだ。未曽有の戦争で負け、その反省に立った上での憲法であることに異存はないが、日本と言う国は1945年に成立したわけではない。少なくとも1300年以上の歴史の重みの上に成り立っている。まさに先人が築いた歴史と伝統と文化の上に現在の日本がある。そうした伝統と文化を大切に、未来まで引き継いでいく義務があると言うことを憲法に謳うことは右傾として排除されることだろうか。(本稿終り)

憲法9条改正前に、「前文」を見直そう(上)

◆安倍総理は昨年5月3日、TVの前で「憲法改正」に強い決意を表明した。国民の間に、自衛隊の存在が根付いている現状にあって、未だ「憲法違反だ」と主張する学者が多数存在し、この問題が事あるごとに混迷を続けている。この現状を打破するため、総理は2020年に新しい憲法を施行するという期限を区切って、「憲法9条に自衛隊を明確に位置付けるため、1項、2項はそのままに、3項として自衛隊の根拠規定を追加する」という大胆な提案を行った。ここにきてようやく、自民党改憲本部では「9条2項は維持すべきだ」、「いや、維持は矛盾だ。削除すべきだ」、「自衛隊の根拠規定をどう表現するか」など、喧しい議論が漏れ伝わってくる。野党は野党で冷淡で、指一本触れさせないなどと嘯いている。

◆ところで現憲法の「前文」を読んだことがあるだろうか。「前文」には、この憲法が拠って立つ理念、この国が目指すところ(所謂ビジョン)、骨格(国の形)を示し、日本はどういう国を創ろうとしているのか、国民に分かりやすい表現を使うことが求められる。その根底には右も左もない。あるのは日本国民というこの国を構成する一人一人の国民だ。少々長くなるが現憲法の「前文」を引用する。

【憲法前文】・・・引用
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と専従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信じる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。  ―引用終り―  (以下、次回に続く)

2018年3月 2日 (金)

明治150年の歴史から何を学ぶか(3)

明治150年の節目に当たる今年、弊ブログでも歴史学者磯田道史氏が著した「『司馬遼太郎』で学ぶ日本史」を主軸に、司馬氏の歴史観をまとめた「この国のかたち」や幕末・維新を題材にした歴史小説を参考にして、幕末・明治と現代との関りについて話を進めている。

江戸時代からの遺産の引継ぎ
明治維新を成し遂げた薩長土肥はそれぞれ特徴ある政治家・軍人・官僚等数多くの人材を新政府に提供した。また教育に熱心だった会津藩、文化・技術を重視した加賀藩なども優れた人材を輩出。つまり江戸時代はそれぞれの藩がその特徴に応じた人材を輩出し、それが明治維新を迎えたことで、各藩の最も良質な部分が中央に集められた。即ち、この江戸時代の多様さこそ、明治政府が江戸日本から引き継いだ最大の財産だった。


第二の遺産
司馬さんは江戸時代からの遺産として、庶民の民度の高さ、順法精神、識字率・知的レベルの高さを挙げている。加えて、権威に従順、親孝行、忠孝といった考え方が浸透し、「正直」という徳目が重視された。こうした考えは「公共心の高さ公への奉仕」に繋がっていく。その背景には「島国の閉鎖社会」という環境の中に在って、自分勝手な行動はつまはじきされてしまうことになるという側面があるからだろう。こうした価値観は戦後日本社会にも引き継がれ、公共心の高さ、マナーの良さなどが海外から称賛されるところではあるが、他方、価値観の多様性で公共心の欠如道徳心の後退などマイナス面の行動が増えたことは残念なことではある。 


江戸時代の負の遺産
司馬さんは、負の遺産として「東アジアへの蔑視の姿勢」をあげている。江戸期の海禁政策(所謂鎖国)のもと、「中国、朝鮮は儒教の国だと言っても形式のみで、儒教道徳がいちばん貫かれているのは日本ではないか」と言う意識が根付いて、独善性が高まった。明治になり、日清戦争で清国に勝ったことで中国・朝鮮を下に見る傾向は強くなった。


◆脱亜入欧思想の蹉跌
脱亜論」は、福沢諭吉がアジアと手を携えようとして苦しみ、朝鮮の近代化の難しさに絶望した挙句に吐いた言葉だったという。「脱亜入欧」とは日本はアジアを脱して、西欧の仲間入りをすべきだという考えだが、のちに「西欧は偉いが、東アジアは劣っているから支配して当然だ」というように誤解された。その誤解が優越感に変わり、東アジアの中で孤立しやすい社会や思想を作り出していった。司馬さんはこうした傾向に対する心配や危惧を抱いていたが、まさに現在に至る朝鮮半島、中国との根深い対立はここに端を発していると言えるのではなかろうか。(続く)

2018年2月24日 (土)

迎賓館赤坂離宮を見学して

昭和37年に上京して以来、気になる存在ではあるが、全く縁がないものと思っていた「迎賓館赤坂離宮」。国は2016年度から観光振興のため、通年で一般公開することに決めた。それ以前は昭和50年から毎年接遇に支障のない時期に、限定的に館内を一般公開していたそうだ。現在は本館・主庭は当日整理券で有料入館できるようになり、今回たまたまシルバー仲間と見学する機会を持った。なお、昨年トランプ米大統領訪日の際、総理と二人で鯉に餌をやっているシーンがあったが、その和風別館はインターネットの申し込み(抽選)で、有料で見学できるそうだが、今回は残念ながら入館できなかった。

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(内閣府迎賓館赤坂離宮写真集より、本館外観)

☆【沿革】 迎賓館はかつて紀州徳川家の江戸屋敷があった広大な場所に、10年の歳月をかけて明治42年(1909)、後に大正天皇となる皇太子の東宮御所として建設された。当時の予算で500万円、現在の価値に換算すると5千億円という巨費を投じたという。当時の日本の一流建築家や美術工芸家が総力をあげて建設したもので、日本における唯一のネオ・バロック洋式の西洋風宮殿建築だった。規模ではベルサイユ宮殿とは比較にならないが、豪華で美しい内装や煌びやかな装飾などはそれを彷彿させるものがある。なお、敷地は11万7000㎡で東京ドームの約2.5倍にもなる。

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(内閣府迎賓館赤坂離宮写真集より、「花鳥の間」)

この建物は明治天皇も豪華すぎるということで敬遠し、大正天皇の東宮時代も使い勝手が悪いという理由であまり使われることがなかった。大正天皇が即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。戦後、国に移管され国会や行政の機関(国会図書館他)として利用されたが、GHQが接収しなかったのは、天皇家に関連する施設だったから、遠慮したのだろうか。

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(内閣府迎賓館赤坂離宮写真集より、「主庭噴水池」)

戦後10数年経って、外国の賓客を接遇するための施設の必要性が高まった。それに適合したのが「旧赤坂離宮」だった。当時の池田・佐藤の2代政権はこれを改修して迎賓館とすることに決定。こうして5年の歳月と108億円をかけて、田中角栄政権当時の昭和49年(1974)に本館、和風別館と合わせて現在の迎賓館が完成した。新装なった迎賓館の最初の国賓はアメリカのフォード大統領だった。

Dscf2409 (ネオ・バロック様式の正門)

開館以来、世界各国の国王、大統領、首相などの国賓、公賓がこの迎賓館に宿泊し、政財学界の要人との会談やレセプション、晩餐会、天皇皇后両陛下の謁見、また国賓と総理の儀仗兵の閲兵式など華々しい外交活動の舞台となっている。その他G7などの重要な国際会議の会場としても使用されている。
創建当初は、巨額予算と贅沢などの批判が起こるものだが、長い目で見れば国家の財産となり、国民の遺産ともなる。要は将来を見越した為政者の決断にかかっている。

2009年には創建当時の建造物である本館、正門、主庭噴水池等が明治維新以降の建造物としては初めて国宝に指定された。迎賓館で宿泊及び接遇ができるのは外国の元首またはこれに準じる者で、国賓として招請することを閣議決定した場合である。因みに一回の利用は一組10名までで、年10組までとのこと。
我々見学者の入館チェックは空港並みに厳しく、内部の撮影は許されていないが、一見の価値はある。(終り)

2018年2月15日 (木)

明治150年の歴史から何を学ぶか(2)

1.革命の三段階
◆司馬さんは旧体制から新時代に変革するためには革命の三段階を経ると言う。
第一段階では新しい時代の理想主義を掲げる思想家が出現する。ところが、そうした思想家の多くは非業の死を遂げる。幕末においてはその代表は吉田松陰、横井小楠、橋本佐内らだろう。
第二段階ではその思想を実行に移す革命家、戦略家が出現する。長州藩の高杉晋作、桂小五郎、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、土佐の坂本龍馬などだ。しかし彼らも天寿を全うしない。
第三段階では多くの犠牲者達の上に、革命の果実を受け取る権力者が出現する。その代表は新政府の政界・官界・軍事に君臨した山形有朋だろう。
すでに革命の進行段階で腐敗は始まっていた。山形はじめ明治政府の要職に就いた革命の志士たちはその果実を貪ろうとした。「組織は変質し、腐敗する」は古今東西あらゆる組織や人物に共通する。明治新政府も例外ではなかった。


◆司馬氏は革命が三段階を経る中で、技術者の出現が重要であると指摘する。その技術とは科学技術でもよいし、法制技術、軍事技術であってもよい。革命の思想が尊王攘夷というイデオロギー、つまり精神的なものであるのに対し、技術の革新は合理主義的な考えを伴う。単に「尊王攘夷」を唱え、革命を起こそうとしただけでは明治維新は成立しなかった。司馬さんは日本の陸軍の近代化を成し遂げた人物として長州藩の村医者であった大村益次郎を挙げる。彼は旧来の武士階級はむしろ新国家の敵と考えた。農民や庶民に連発式のライフル銃を持たせ、近代的な西洋式の組織化された軍隊を創った。その成果は幕府の長州征伐、討幕の戊辰戦争に顕著に表れた。数で劣る素人集団が旧体制の武士集団を破るという近代化された軍事の力を形で示した。彼は徹底した合理主義者だった。

2.合理主義と無私の精神
◆技術者の出現で特筆すべきは、本来体制側に回るはずの各藩の諸侯の中にも開明的な考えを持ち、軍事力の増強・改革、殖産興業にも注力する藩主が現れたことだ。薩摩の島津斉彬、佐賀の鍋島閑叟、宇和島の伊達宗城など開明的な大名達は、軍艦を建造したり、製鉄、アームストロング砲などの近代兵器を採用。日本の防衛力強化に備えたが、それらの技術の革新も糾合して、世の中の動きは薩長同盟を主軸とした「尊王開国」に傾いていった。また、討幕の標的となった徳川幕府も軍制改革、技術革新を通して勝海舟、榎本武揚、江川太郎左衛門らいわゆるテクノクラートを輩出し、後に維新政府の人材登用に応える形となった。

◆大村の合理主義は時に他者との軋轢を生みかねない。しかし変動期には大村のような合理主義的な人物が登場して国を動かす。ところが静穏期に入ると日本人は途端に合理主義を捨て去る。またリーダーシップに欠かせないものが「無私の精神」、つまり自分を勘定に入れない客観性であり、この二つを兼ね備えたリーダーシップでないと合理性を失った日本社会を変革させることはできないと司馬さんは言う。戦後の日本社会を見るに、ある種の不合理が罷り通り、病根の深さを窺い知ることができる。リアリズム合理性というものが最終的に勝利を収め、時代を動かすという司馬さんの言葉は慧眼に値しよう。(続く)

«朝鮮半島に統一の日は来るか。