2012年5月26日 (土)

仏教と葬式

◆仏教と葬式とは切っても切れないもの・・それが一般的常識だと思われていた。
だが、最近家族葬とか友人葬とか、必ずしもお寺に頼らず行われ、また埋葬に
おいても、海、山、樹木など自然へ還す散骨(許可はいるが)なども見られるよう
になり、戒名を不要として俗名のままでいいとするケースも表れた。


◆その背景には高額な葬式費用、不透明な戒名料、墓地埋葬費用など経済
的な側面が大きいものと思われるが、それ以外にも形骸化したお寺そのもの
の存在があるからではないだろうか。核家族化が進み、都会暮らしが定着して、
檀家の数が減り、経営に苦慮するお寺も多いと聞く。


◆そもそも何故、仏教と葬式が結びついたのか。仏教の開祖ブッダは人間の
根本的な生老病死(四苦)にあり、苦しみの根源は「煩悩」にあると説く。人生
が思い通りにならない原因は「無明」(即ち一切皆苦、諸行無常、諸法無我
を正しく知らない状態)にあることであり、教えの最終的なゴールは涅槃静寂
(煩悩に捉われず、心の安らぎ得る悟りの境地)に至ることであると説いている。


◆即ち、仏教とは生きている間に修行して悟りを開くことが目的であって、本来、
人間の生き方を教えているもの。しかしこれは天才お釈迦様だからこそ出来た
ことで、一般凡人には大変難しい教えと云えた。ブッダの死後、弟子達がその
教えを文字で書き記したのが初期の原始仏典で、後に小乗仏教と云われた。


◆しかし釈迦滅後400年ばかり経った紀元前後から大乗仏教が興った。所謂
自分ひとりの解脱を目指す小乗仏教ではなく、他者の救済を優先する利他行
を重んじるようになり、その仏教が中国、朝鮮を経て538年(?)に日本に伝わ
ってきた。即ち釈迦の手を離れた仏教は独り歩きし、後世の僧侶たちによって
膨大な5000巻以上の経典が編み出されていった。そして日本にも奈良、平安、
鎌倉時代に新しい仏教が次々に入ってきた。


◆人間の「死」は避けて通れないもの。その死者への礼を尽くすため、埋葬し
別れの儀式をすることはごく自然な人間の営みであった。死後の世界は誰も
見たことのない世界であるから、「死」そのものに対する恐怖が起こるのはごく
自然なことだった。それ故、人間を不幸から救い、幸せに導くと称する仏教者
達が入り込む余地があるし、また人々もそれを求め、「死」→「葬式」→「仏教」
という構図ができあがっていった。


◆ブッダが唱えた仏教の本質が、後世の大乗仏教によって大きく変質していっ
たことは確かで、釈尊自身、仏像を作って敬えとか、念仏を唱えれば即身成仏
できるとか、葬式には仏教を用いよとかそんなことは一切言っていない。要は
後世の聖人達は簡便な方法、謂わば「インスタント成仏法」を編み出したと云え
なくもない。これは良し悪しではなく歴史の流れだった。


◆しかし、21世紀の今、冒頭に述べた最近の仏教というよりお寺離れが徐々に
進行していることは、人間の原点回帰を追い求めている動きの顕れとも云えない
だろうか。こんなことを考え、戒名を己で考えようとしている自分はなかなか成仏
できないだろうが・・・。


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2012年5月22日 (火)

長崎西高同窓会 

◆昭和37年3月(1962)、母校長崎西高を卒業して、丁度50年の歳月が流れた。
来年には古希を迎える。古希の祝いは数えでやることが多いそうで、卒業50
周年と古希の祝いを兼ねて、長崎市で長崎西高同窓会が行われた。


◆この日は夕方4時前に正門前に集合。殆ど昔の面影は無い。ただ集まって
きた同窓生に昔の面影を見つけ、あちこちで喚声があがっている。最初に音
楽教室に集合。当時の音楽教師のA先生を招き(齢80過ぎか)、先生の力強
いピアノの伴奏に合せて、復活授業が始まった。校歌を皮切りにいくつかの
歌曲や愛唱歌をみんなで思いっきり歌う。70になろうかという御同輩たちだが、
みんな張りのある朗々とした歌声。現役時代の音楽の授業とは裏腹に明るい、
笑いのある、楽しい授業となった。


◆そのあと、今の校長から現在の西高の活躍振りが紹介される。勉学の方
では九州のトップクラスに成長し、運動、文化活動でも全国的に活躍。進学
志望高1位にランクされているとのこと。「後生畏るべし」、いや「後輩恐る
べし」。いい加減な不肖の先輩としても嬉しい限りだ。記念品を贈呈した後、
現役の若い先生が校内を案内。全く様変わりした、近代的な明るい校舎、
体育館、プール、クラブの部室など見て回り、昔と比べて狭くなった運動場
では、野球部などはやりにくかろう。(ついでながら甲子園出場は過去2回あり)


◆今回の同窓会には遠くアメリカ、オクラホマからも来たり、関東、関西、福岡
など県外からの参加者も多く、半数ほど占めていたように思う。中には現役の
医者などもいるが、大半はそれぞれ社会の一線で活躍し、リタイアした連中だ
から、皆陽気で元気がいい。3年時、同級生だった「草野仁」君から欠席の
ビデオ・メッセージが届いていた。


◆会場を大きな中華料理店に移し、いよいよ盛り上がる。その余勢をかって
鍛冶屋町に繰り出し二次会、あとは思い思いに三次会、四次回・・長崎の夜は
更けていく。帰宅後データを調べてみると卒業生は454名(男290、女164)、連
絡がとれない不明者が87名(約20%)、不幸にして鬼籍に入られた方が44名、
(約10%)、当日参加者は120名程と推定されるので、それらを考慮すると、出
席率37%くらいか。かなり高率ではないだろうか。これから人生の終盤に向かう
我々世代だが、青春の1ページに浸った平成24年5月19日の長崎だった。

Dscf4003
校庭に建つ「自律」の碑 (当時はなかったもの)

Dscf4053
長崎西高正門(場所は同じでも見違えるほど綺麗になっていた。


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2012年5月18日 (金)

鎌倉歴史探訪(11)後編

江ノ電沿線篇・後
若葉が茂る新緑の季節、鎌倉の寺院を歩いていると、鶯の鳴き声が途絶える
ことなく耳に入り心地よい。場所柄からか、鎌倉の鶯は「法華経、法華経」と明
確に鳴いているよう聞こえるが、気のせいだろうか。江ノ電は海岸線と住宅街
を縫うように走るレトロな電車だが、ウィークデイでも観光客、修学旅行や遠足
の生徒、高校生や地元の人でほぼ満員であり、随分儲かっている電車だなと
推測される。


【収玄寺】
あまり聞きなれない寺だが、ここは日蓮の在家の弟子「四条金吾」の屋敷が
あったところで、東郷平八郎元帥の揮毫による碑が建っている。四条金吾は
正式には「四条中務三郎左衛門頼基」。北条氏の臣、江間氏の家臣で典型
的な鎌倉武士。日蓮に帰依し、竜ノ口の法難の時は殉死を覚悟し、馬の轡を
とったという。日蓮は多くの弟子旦那に膨大な数の書信、論文を残しているが、
四条金吾当てのものはトップクラスだ。金吾は武者振りもよく女性にもてたと
いう。この寺は江戸時代の文政年間になって創建されたもの。


Dscf4033 東郷元帥の揮毫による碑

【長谷寺】
鎌倉の寺院の中でも大仏と並んで観光のベストコースになっている。坂東
三十三観音の第4番目の札所でもあり、人が途絶える事が無い。入山料を
払うにも「スイカ」が使えるというから恐れ入る。本尊は金箔を施された十一
面観音立像で像高9.18m。木造の観音像では日本最大とのこと。創建は
天平8年(736)とされ、本尊は奈良の長谷寺と一木二体のものと伝わる。
塔頭は山の斜面に沿って広がるが、建物自体は新しく、重厚さはない。庭の
手入れは良く行き届き、四季折々の表情を見せてくれる。今回一番上まで
登ったが、由比ヶ浜の眺望が素晴らしい。


Dscf4043
長谷寺上部より見た由比ヶ浜の眺望

Dscf4039 長谷寺境内庭の一部

【光則寺】
執権北条時頼の近臣宿谷行時・光則父子邸の跡である。日蓮聖人は
文応元年(1260)、この宿谷氏の手を経て立正安国論を時頼に奏進した。
竜ノ口の法難のあと日蓮は佐渡に流され、弟子たちも捉えられた。日朗
上人はこの宿谷光則邸の裏奥にある土の籠(牢)に幽閉された。その後
佐渡流罪を許された日蓮は身延に入るが、そのころ光則は日蓮に帰依し、
光則寺を建立した。境内には植物園さながらに樹木草木が植えられ目を
楽しませてくれる。鶯の鳴き声と静寂な空間を破るように、突然、けたたま
しい怪鳥か何かの叫び声が聞こえた。捜すとインド孔雀2羽がゲージの中で
飼われており、ちょうど180度に羽を拡げて「どうだ」といわんばかりの様子。

Dscf4048 光則寺の土牢

本稿終わり

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2012年5月17日 (木)

鎌倉歴史探訪問(11)前篇

江ノ電沿線篇(前)
5/16日、五月晴れの一日。気温も25度を越え汗ばむほど。シルバー仲間との
鎌倉歴史探訪シリーズは今回で一応最終回となる。今回は江ノ電沿線の12の
寺社仏閣を巡った。竜口寺を皮切りに満福寺、小動(こゆるぎ)神社、極楽寺、
成就院、虚空蔵堂、御霊神社、収玄寺長谷寺光則寺、高徳院、甘縄神社、
の12カ所。このうち高徳院(大仏)は何度も見学しており、この日は特に観光客
で混雑しているので、パスする。(太字の寺院のみ特記したい)


【竜口寺】
◆日蓮上人は文永8年(1271)、北条時宗政権の実力者「平左衛門尉頼綱」の
画策により捉えられ、その日のうちに刑場(竜ノ口)へ護送された。しかしこの
措置は評定(裁判)を経ず刑の執行を行うものとして幕閣からも異議が出され、
処刑中止の使者が送られた。深夜2時頃まさに斬首されようとする時、火球の
ように光るもの(大きな隕石か?)が飛んできて、混乱状態に陥る中、使者が
到着して、中止になったというもの。


◆この刑場跡地に直弟子の日法上人が延元2年(1337)に「敷皮堂」を建て、
自作の祖師像を安置したのが始まりとされる。境内の五重塔は神奈川県で
唯一の木造本式五重塔で、明治43年の建立。

Dscf3992 竜口寺山門

Dscf4003 本堂と五重塔

Dscf3993
御霊窟、刑場に出される前に一時的に入れられたとされる獄舎。時間的
には数時間ほどか。


【満福寺】
文治元年(1185)5月、平家討伐を終えた義経が兄頼朝の嫌疑のため、この
腰越の地に止め置かれた際、我が身の潔白と兄への一途な忠節を訴えて、
認めたいわゆる「腰越状」で有名な寺。弁慶が書いたと伝えられる下書きが
収められている。本堂には義経の一生を描いた鎌倉彫の襖絵がある。
Dscf4004

Dscf4007 浮世絵源平合戦絵図

Dscf4008 満福寺本堂

(続く)

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2012年5月14日 (月)

旧東海道テクテクぶらり旅(7)続き

【箱根宿~三島宿】後編
◆全体に勾配が緩やかな箱根西坂だが、半分ほど過ぎると人家が増え、舗装
道路も増えてくる。下長坂(こわめし坂)辺りになると長い急勾配の坂が続く。
長い下り坂は足腰に負担が来て、後々に響いてくる。さらに終りに近い臼転坂
は石畳の急坂だが、こちらの方がまだ歩きやすい。


◆箱根西坂の終り近くに「箱根時の碑」を刻んだ大きな石がある。ここを過ぎた
ら国道1号線を挟んで初音ケ原の長い松並木が続く。片側に石畳が敷かれ、散
歩コースにもなっている。途中後ろから馬力あるおっさんが声をかけながら追い
越そうとする。聞けば、日本橋からスタートして今日が四日目とのこと。今朝は
小田原スタートで早くも箱根越え、今2時だから今日は沼津あたりか。年齢は
50
~60歳くらい。「江戸時代の健脚並みのスピードですね」と云ったら、汗を拭
きながら白い歯をみせていた。


Dscf3983_2  箱根路の碑

◆初音ケ原の松並木の中に1号線を挟んで両側に「錦田の一里塚」がある。
今まで見た一里塚の中で最も大きく、当時のままの姿を残す貴重な史跡だ。


Dscf3988
「錦田の一里塚」真ん中にけやきが植えてある。

◆愛宕坂、今井坂を下るとようやく長い箱根西坂も終り、市街地に入る。
三島大社を目指して最後のひと踏ん張り。三島大社は伊豆の国の一宮で、
創建は定かでないほど古い。源頼朝、北条早雲ら所縁の神社である。
小休憩し、参拝していたら、お日柄がよいのか白無垢姿の花嫁が二人。
神殿では雅楽の演奏が行われ雰囲気を出している。

Dscf3991  三島大社本殿

◆三島は富士山の伏流水があちことで湧き出し、名所古跡を多く、宿場町
としても栄えた。柿田川でも有名になったが、中心部からかなり離れている。
数年前訪れたことがあった。今回は三島名物「うな重」を桜家さんで頂いた。
伏流水で数日間さらすことによって泥臭さや、生臭さをとっているそうで、
確かにあっさり系で、ふっくらとして美味しい。値段もいいが。


◆さて今回芦ノ湖の箱根宿を9時50分にスタートして、2:30に三島大社に
着いたが、ガイドブックによると約15km、3時間40分の行程とある。万歩
計は16kmを表示していた。調子がよければ沼津までと思っていたが、下り
坂で思いのほか疲れた。三島からJRに乗って小田原まで帰った。(終わり)

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2012年5月13日 (日)

旧東海道テクテクぶらり旅(7)

【箱根宿~三島宿】 前篇
旧東海道テクテクぶらり旅は、当面の目標『日本橋~箱根間』を先月8日に終
え、次の目標を静岡市駿府城までと決めて、今日から芦ノ湖畔の箱根宿から
再スタートすることとした。曇り空で寒さが少し残る中、まず箱根峠へ向けて古
い石畳と杉並木が残る向坂を登る。


Dscf3951
箱根峠へ向けて向坂を登る

◆箱根峠には広い駐車場があり、小休止。ここから静岡県側に入り、箱根
西坂が始まる。下り始めるとまず最初に箱根竹(篠竹)のアーチの中を進む。
「こんな巣を作る鳥がいたな」なんて思いながら進むと、やがて竹は少なくな
り、日当たりがよく道幅も広い、よく手入れされた緩やかな石畳道が続く。
概して西坂の静岡県側の方が東坂の神奈川県側よりも道標などもよく整備
されていて歩きやすい。


Dscf3965  篠竹のアーチ

Dscf3974 よく整備された石畳

Dscf3969  かぶと石

接待茶屋跡を過ぎた辺りに、兜によく似た「甲石」がある。秀吉が小田原城
を攻める際、休憩してこの石の上に兜を置いたことから、その名が付いたと
云われているが・・・。


Dscf3975  雲助徳利の墓

雲助の親分として雲助仲間から慕われた、松谷久四郎の墓といわれる。
剣術が強く、読み書きもできた彼は面倒見も良く、彼の死後、仲間たちが
生前お世話になったお礼として墓を立て、供養したもの。終生酒を愛した
ことから、お墓に盃と徳利を浮き彫りに彫らせているのが、なんとも微笑
ましい。


◆箱根峠から全体の3分の1ほど降りた所に山中城跡がある。天正18年
(1590)秀吉の小田原攻めの際、韮山城に次ぐ北条方の最前線の山城と
して迎え撃った。しかし、秀吉側の圧倒的な大軍の前に僅か半日で落城
したといわれる。「障子堀」や「畝堀」、「土塁」などが残り、「日本100名城」
にも指定されている。今まで2回探訪しているので、今回は省略(続く)


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2012年5月11日 (金)

富士山直下に活断層

◆新聞、テレビが富士山東麓の地下に、長さ30kmの活断層がある可能性が
高いとの東大地震研究所の調査結果を報じた。活断層が見つかったのは静岡
県御殿場市付近。伊豆半島を乗せたフィリピン海プレートが陸側のプレートに
ぶつかる境界と見られる場所で、「逆断層」タイプだという。


◆この辺りでは以前から相模トラフから陸側に繋がる「神縄・国府津ー松田断
層帯」という活断層が確認されており、今回推定された富士山東麓の活断層に
繋がっているという。また、富士山の西側を通り、駿河湾トラフに繋がる「富士
川河口断層帯」も見つかっており、まさに富士・箱根・伊豆を取り囲むように活
断層帯が存在することになる。


◆これらの断層が動けばM7級の地震を引き起こす恐れがあり、特に富士山
直下の活断層では「山体崩壊」の引き金となる可能性も否定できないという。
現に2,900年前に東斜面にあった古い峰の部分が山体崩壊し、今の御殿場市
付近を埋め尽くしたことが判明している。 特に最近富士山周辺で様々な異変
が見つかり、富士山爆発の予兆ではないかとの噂も流れ、安閑としてはいられ
ない。


◆関東大震災の震源地となった相模トラフ、東海地震の震源が予想される駿
河トラフ、想像もしたくないが、いつかは必ず起きる大地震。日本列島に住ん
でいる以上、その宿命は免れないというが、自然の猛威を逆恨みしても始まら
ない。諸行無常で行くしかないのか。

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2012年5月 7日 (月)

橋下大阪市長が抱える矛盾

◆橋下氏が塾長を務める「維新政治塾」に2,000名が集まり盛況だという。この
中から次期衆院選に300人程を擁立し、200議席を獲得する目標らしい。目的
は何か?大阪都構想の実現には国の法律を変える必要がある。そのための
国会進出らしいが、そこにはいくつも矛盾点を抱えている。


◆まず第一に、橋下氏自身が現職の大阪市長だ。しかも市長になって1年も
経っていない。この市長の職を投げ打って、衆院選に打って出られるだろうか。
仮に出馬するとしたら、また大阪市民は多額の選挙費用を負担して、後任の
市長を選ばなければならない。都構想の本陣から大将が抜けて、戦えるのか。
喜ぶのは改革を望まない大阪市の職員達ではないのか。


◆また、維新政治塾から選ばれ候補者達がブームに乗って100人~200人も
国会議員が誕生したとする。殆どが素人集団で、現状の仕組みから勉強する
ことになる。当然組織として代表者を決めなければならない。ところが実質
トップは橋下大阪市長だ。国会で大きな勢力を持つ党派の代表が、一地方
首長のコントロール下に置かれることになる。しかし、いずれ次の機会に橋下
氏が衆院選に鞍替えするだろうから、それは置いておく。


◆問題なのは国会に出て何をするかだ。最大の動機は大阪都構想の実現だ。
それが実現すれば「あとは知らない」と云う訳にはいかないのだ。そのため先
に急遽「船中八策」を発表した。彼が掲げたビジョンや方向はいいのだが、そ
れはまだ完成予想図に過ぎず、具体的設計図、工程表はまだこれからだ。
ましてや外交防衛問題は山の者とも海の者ともつかず、はっきりしていない。


◆国民はこの数十年、理想を掲げ立ち上がったものの、期待に応えられず
挫折したケースを幾度となく見せつけられた。新自由クラブ然り、細川日本新
党然り、今の鳩山・菅・野田民主党然り・・。既成政党は今回の橋下維新の会
のブームにあやかろうと、秋波を送る。橋下氏の構想、行動力、指導力、スピ
ード感には期待するが、一人の力には限界がある。既成勢力を敵として叩く
のもいいが、いかに味方に引き付け、自分の思う方向に仕事をさせるかが
最大のポイントだろう。

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2012年5月 6日 (日)

新東名をバスツアー(続き)

◆三保の松原の方は残念ながらパスすることになったが、こういう場合はオリ
ジナルな旅行に限る。ただ三保半島は最近では砂州の砂が減少し、松が枯れ
死するケースが目立つという。また海抜6mほどの土地に民家が並ぶが、想定
される駿河湾での大地震や津波は大丈夫なのか、他人事ではない。但し樹齢
650年の「羽衣の松」が生き延びているとするならば、それ以降の津波と地震
は乗り越えたということだから、結構強い?


◆夕方になり、田子の浦漁港に立ち寄る。今朝獲れたという生シラスのミニ丼
と桜エビのかき揚げを頂く。ここで一首思い浮かぶ。

 田子の浦 ふりさけ見れば 駿河なる
          富士の高嶺に かかる雲かも     山部の仲麻呂
     

「ん?  なんじゃ これは!」   では口直しにもう一首

 田子の浦に 車を止めて 立ち寄れば
            富士の裾野に  夕陽傾く      南野骨茶

(訳)夕暮れの寂しい田子の浦の漁港に立ち寄ってみると、海を挟んで向こう
にピンク色に染まり始めた富士が悠然と立っている。かもめも帰り始めたようだ。


Dscf3943

田子の浦漁港から夕方の富士を見る。

◆今日一日、どこに行っても富士山が眺められた。雲はわずかにかかる程
度。こんな日は珍しいと思う。帰りに新東名の「駿河湾沼津SA」に立ち寄る。
相変わらず大勢の人で賑わっている。
帰りの箱根新道はやはり渋滞したものの、予定を少しオーバーし、7:30には
小田原駅についた。(終わり)

Dscf3947

夕暮れの新東名「駿河湾沼津SA」 

  

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新東名をバスツアー

◆久し振りの五月晴れとなった昨日、新東名と駿河路を巡るバスツアーに参加
してきた。連休後半の絶好の行楽日とあって、渋滞は覚悟の上だが、箱根越え
から三島にかけては比較的に順調。三島の名物うな重を頂き、新東名の長泉
沼津ICへ入る。話題の「駿河湾沼津SA」と「清水PA」はパーキングに入るまで
が大渋滞。そこは帰路立ち寄るということで、横目に見ながらスイスイ通過。
途中東名に進路を変えて焼津へ。焼津港の近くでまぐろの鮨と初ガツオを刺身
をつまんで、海岸線沿いのR150号を清水方面へ移動する。


Dscf3931
ちょぴり背伸びした(?)富士山。 三島にて。

◆石垣イチゴで有名なこの道は今日はやや渋滞。途中左の小高い山(日本
平)に久能山東照宮が見て取れる。車窓から見上げる人影が米粒のよう。標
高216mというから、下から歩いて登るのは大変みたいだ。東照宮から見下ろ
すと、眼下に雄大な太平洋が広がり、人や車は小さく見える事だろう。一昨年、
本殿、拝殿等が国宝に指定されたというから、改めて訪れたいところだ。


◆さらに進むと、清水港へ。現在は静岡市清水区。神戸、長崎と並んで日本
三大美港に数えられる。ここで波静かな清水港を横切る形で向かいの三保
の海岸までミニクルージング。国際港湾に指定されながら、ウインドサーフィン
や、海上スクーター、ヨットなど海のレジャーを楽しむ人が結構いるのに驚き。

Dscf3937

国際港らしく、豪州から輸入されたアルミの原料ボーキサイトが山積みに。


◆15紛ほどで三保の桟橋に着く。安倍川が創り出した大規模な砂嘴が清水
港を囲むような三保半島となり、外海の駿河湾に総延長7km、5万4千本の
松林が生い茂る。これが景勝三保の松原で、樹齢650年といわれる「羽衣の
松」が有名だが、既成ツアーの悲しさ、ここもパスする。(続く)

Dscf3939
清水港内のクルーズで富士山を見る。富士の下にキリン、恐竜(?)が3頭。

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2012年5月 4日 (金)

北条五代祭

◆毎年GWのこの時期、小田原城を中心に「北条五代祭」、「北条六斎市」、
「小田原城名物市」さらにどういう訳か「ジャズフェスタ」が行われる。また旧
市街の各神社の祭礼も行われ、大小の神輿が街を練り歩く。
三日に行われた最大のメイン行事、武者隊パレードは、どうやら雨もあがって
12万人の観客の前で行われた模様。


◆小田原城の西側堀の脇にある藤棚は樹齢200年ほどのなかなかのもの。
毎年この時期、薄紫色で堀端に彩りを添えてくれる。謂れによると小田原藩
主大久保氏が哀願していた鉢植えの藤がその後何人かの手を経て、ある時、
大正天皇の目に留まり、いたく愛でたため「御感の藤」と呼ばれるようになった
とのこと。大正11年に現在地に移植されたそうで、それからでも90年になる。
老木のため少々元気がなくなった感じもするが・・。

Dscf3916  小田原城「御感の藤」

Dscf3920  銅門広場のジャズフェスタ

Dscf3921  町内を練り歩く子供神輿

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2012年5月 3日 (木)

いつまで、もたつく憲法論議

◆昨年10月、衆参の「憲法審査会」が活動を始めてから半年が経った。主目
的は時代の変化に適応していない現行憲法を見直し、改正原案を審査・発議
することだという。ここで発議された改正案が衆参各3分の2以上の賛成で可
決され、国民投票の過半数を得て憲法が改正されることになる。


◆ところがこの憲法改正問題、何も今に始まったことではない。衆参は2000年
から5年間「憲法調査会」を設置して憲法論議を一通り終えているのだ。しかし、
今の「憲法審査会」はどこをどのように変えるのかという具体論はいまだ始め
ていない。憲法改正の入り口で、三つの宿題が持ちあがり、足踏み状態で前
に進まないと云う。


◆三つの宿題とは、①国民投票の投票権を18歳以上としたが、選挙権年齢
や成人年齢を引き下げるのか、②公務員の政治的行為の制限規定の見直
し、③憲法改正以外でも国民投票を認める制度にするかどうか、という3点で
ある。いずれも重要な問題ではあるが、こんなところで足踏みしているとは、
先が思いやられる。


◆憲法改正については、現行憲法はGHQから示された草案に修正を加えた
「米国製憲法」であって、日本国民が自発的、主体的に制定したものではない。
よって、「国民の手で憲法を作る必要がある」と云われてから久しい。それが
一向に前に進まない。理由はいろいろあるだろうが、そもそも今の国会議員
に任せること自体、能力的に体制的に無理なのではないだろうか。技術的な
ことばかりに目が向けられ、「日本の国家像や国柄を正面から踏まえた憲
法」、「運命共同体としての国家という考え方に基づいた憲法」を起草すると
いう観点が欠落しているように思えてならない。与野党が集まってワイワイ、
ガヤガヤやっても一向に進まないのはある意味当然だ。


◆改正論議が起こってから10年以上経過した。この間日本は外交防衛問題、
国家財政問題、社会福祉問題、教育問題、少子高齢化問題、地方分権問
題、大震災問題等でますます混迷の度合いを深め、方向を見失った感がす
る。これらの問題は新憲法に照らし合わせれば解決の糸口が見えるという
ような新しい憲法をできるだけ速やかに創り出す時ではないだろうか。






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2012年5月 2日 (水)

ツアーバスが大事故

◆GWに入ったばかりの29日未明、金沢方面からディズニーランドに向かうツア
ーバスが関越道で、死者7名、重軽症者38名の大惨事を引き起こした。原因は
運転手の居眠りとされるが、背景にはバス会社の過当競争による運転手の過
重労働、旅行会社の値下げ競争によるバス運行会社へのしわ寄せ、国交省の
行き過ぎとも思える規制緩和とその結果の監督不行き届きなどがクローズアッ
プされている。


◆数年前からこうしたバスツアーもよく利用しているが、その立場から言うと、2
~3日の旅程で添乗員は同乗するものの、運転手一人で1日数百km、全行程
では千数百kmも運転している状況を見るにつけ、運転手の疲労による事故は
いつかは起こり得るだろうと思っていた。不幸にして今回、起こるべくして起きた
訳だが、バスツアーに参加していると、こちらのバスに責はなくとも、事故に巻
き込まれる事も十分在り得るだろう・・・想像するだけで恐怖を覚えることも多々
あった。


◆ヨーロッパを旅行した時も、ツアー会社がチャーターしたバスは国内以上に
走行距離が長いが、高速道では必ず2時間走っては30分の休憩タイムをガッ
チリ取っていた。法律で決められていると頑として固守していた。ついでながら
景色が一番よく見える先頭の席は運転手席の後ろも含めて空席にする。
理由は事故があったとき、被害の確立が最も高いからだそうだ。しかし高速
道路のスピードは日本以上で、大変怖かった。


◆経済活性化のために何でも規制緩和すればいいというものではないだろう。
ものには需給のバランスを考えた適正体制や、経営を正当に維持するための
適正利益というものがあるはずだ。暴利、談合、独占、ダンピングなど極端か
ら極端がいけないのであって、消費者側も安かろう、悪かろうの体質には安易
に乗らない賢明さが必要だ。

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2012年5月 1日 (火)

今日から5月

◆今日5月1日は八十八夜。「野にも山にも若葉が茂り、あかね襷に菅げの笠」
なんて風景は最近ではトンとお目にかからなくなったが、若葉が目に染みる
季節にはなった。
子供の頃、女の子たちが「せっせっせ~」で歌い始め、手のひらを合わせなが
ら、「トントン」と調子をとっていたのを思い出す。今の子も同じように歌っている
のだろうか。


 「茶 摘」               明治45年尋常小学唱歌   作詞・作曲者不詳

 1. 夏も近づく 八十八夜  野にも山にも 若葉が茂る
    「あれに見えるは 茶摘みじゃないか あかねだすきに 菅の笠」

 2. 日和つづきの きょうこの頃を  心のどかに摘みつつ歌う
    「摘めよ摘め摘め 摘まねばならぬ 摘まにゃ日本の茶にならぬ」


なんとも時代にそぐわない2番の歌詞ではあるが、茶葉を機械で刈り取るのは
仕方ないとしても、セシウム濃度を測定してから出荷しなければならぬとは、
情けない世の中になったものだ。


◆ついでながら、5月といえば端午の節句。「背くらべ」を歌ったね。

 「背 くらべ」             大正8年  作詞:海野 厚  作曲:中山晋平

 1. 柱のきずは おととしの  五月五日の 背くらべ
   粽たべたべ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ
   きのうくらべりゃ 何のこと やっと羽織の 紐のたけ

 2. 柱に凭れりゃ すぐ見える  遠いお山も 背くらべ
   雲の上まで  顔だして   てんでに背伸び していても
   雪の帽子を  ぬいでさえ 一はやっぱり 富士の山

確かに昔は柱にきずをつけて 背丈を計ったものだった。今じゃ柱にきず
つけりゃ怒られる?

Photo  ベランダのクンシラン
 

  

  

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2012年4月30日 (月)

「初島」探訪記

◆熱海市の南東10kmの洋上に浮かぶ初島は晴れた日には我が家のベラン
ダから遠望でき、夜には灯台の灯りが目に入る。近いので、いつでも行けると
思っていたせいか、一度も訪れたことはなかった。連休の初日、子供達家族
らと熱海に宿泊し、翌日初めて島を訪れた。


◆首都圏から最も近い、手軽なアイランド・リゾート「初島」へは熱海から船で
30分。この日は好天で波穏やか、子供連れの観光客や釣りなどのレジャー
客でほぼ満員だ。近くに見えていても、結構時間がかかるものだ実感する。


◆初島は静岡県唯一の有人島だとは知らず、認識を新たにしたり、面積0.437
k㎡、海岸線の長さが4kmで、1時間も歩けば島を一周でき、人口215人の小
さな島だけど、意外と古い歴史を有していることに驚かされた。


◆近年リゾート開発の浮沈を繰り返した後、ようやく今の形で安定してきたよう
で、レジャー施設はいろいろと整っているが、料金はなんでも結構高い。海中
展望船NOAHに乗ってみたが、それなりに水中展望を楽しむことはできても、
南の海ほど魚種は多くはなく、色の変化が鮮やかというほどでもないようだ。


◆お昼時になると、20数軒あるという海鮮食堂街はどこも満員で、立って待っ
ている状態。時間はたっぷりあるのだから、何もGWの混雑時に来なくとも
閑散な時に釣りでもしながら再訪しようかと、熱海まで戻って遅い昼食となる。

Photo
初島へ渡る船

Dscf3907
小さな初島港へ到着

Dscf3912
初島を後にする

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2012年4月28日 (土)

国家の品格(2)

◆こうして見てくると、科学の研究に偉大な貢献をした人に贈られるノーベル
賞が西欧人に多い訳が分かります。知的好奇心の探究という長い歴史の蓄
積があるからであり、日本も戦後湯川博士以来やっと純粋な科学研究の地
道な積み重ねが世界に認めらてきたからでしょう。ところが、世界第二の経
済大国となった中国は、まだ一人もノーベル科学賞の受賞者を出していな
いのです。


◆先日NHKの「クローズアップ現代」で漢方薬と漢方医学の現状の問題点を
取上げていました。日本には漢方薬は古くから入り、近年では漢方薬の成分
を化学的に分析し、独自の発展をして西洋医学と融合させているそうです。
欧米諸国にも漢方は見直され、普及しているといいます。その結果漢方薬の
原料となる生薬の価格が高騰し、不足しはじめました。これに目をつけた中
国は「漢方薬と漢方医学は中国発祥のものだ」として世界標準を作り、それ
に違反するものは排除しようと画策しているというのです。


◆長年の経験則から積み上げた独自の漢方医学と漢方薬は中国4千年の
歴史でしょうが、どの成分が何故効くのか科学的分析に基づくものではありま
せんでした。もし中国の戦略が世界水準になったら日本の独自の漢方はどう
なるのか、関係者は不安は拭えないと言います。これを見ても中国は「国家
の品格」を云々する以前の問題でしょう。


◆7年前、数学者の藤腹正彦氏が著した「国家の品格」という本がベストセラ
ーになりました。その内容を抜粋すると「資本主義の勝利は幻想/情緒の文
明を誇れ/英語より国語と漢字/卑怯を憎む心/惻隠の情の大切さ/武士道
精神の復興を/古典を読め/家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛/重要なのは
「文学」と「芸術」と「数学」/真のエリートを求める」等々、大変感銘を受けた
書物でした。


◆今回山崎正和さんが、違った角度から「国家の品格」を問いかけました。
純粋な科学、文化としての科学の振興を、国として支え育てる事、これが国
家の品格であると考え直す時期が来ているのではないか。科学に不可欠な
のは想像力なのであって、その基盤となるのは数学と言語能力だという。
こうした人材を育てる教育振興策を国を挙げて進めていく必要があると氏は
提言しています。(本稿終わり)

Photo  
「小田原下曽我・瑞雲寺の桜」 (二宮 T・Uさん

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2012年4月27日 (金)

国家の品格 (1)

◆現代の中国に「国家の品格」があると思う日本人は、まずいないのではない
でしょうか。先日読売新聞の「地球を読むシリーズ」に劇作家の山崎正和氏が
「科学振興策」というテーマで寄稿していました。その提言を読んで、冒頭の小
生が投げかけた問題の遠因が分かったような気がします。


◆提言の趣旨は、「科学」と「科学技術」とは異なり、純粋な科学・文化としての
科学の振興を国益の観点ではなく、「国家の品格の問題」として考え直す時期
がきているのではないかというものです。日本では科学は技術の基礎研究と
してしか位置づけられておらず、公費助成はあくまで技術開発の基礎になるも
のが中心であり、一見「何の役に立つのか」という科学の研究への助成は後
回しにされがちです。


◆西洋の科学は古代ギリシャの時代から純粋に知的好奇心を満たすために、
一種の遊びの精神から数学が発達し、自然現象の因果関係を探り、物質の
成り立ちを分子、原子、素粒子の単位まで追求しました。そうすることによって
自然の解釈に神の意志を持ち込む範囲を狭め、人間の理性の役割を大きく
することができたのです。


◆翻って古代中国の技術文明を見てみると、紙や火薬や磁石など偉大な発明
はすべて帝国を統治するための必要から生まれたもので、支配する側の目的
は帝国の安寧と秩序の維持でした。彼らは「礼」と「詩」と「力」の観念はあって
も、真理を探る知的好奇心の芽生える余地は乏しかったと氏は言います。


◆火薬には硝石が必要と分かって、技術は発展し、小銃から大砲まで発明した
のに、硝石に含まれる酸素の発見には至らなかった。しかし内乱が収まると、
技術革新の意欲も衰えて、やがて中国は長い停滞期を招いたのでした。


◆西洋起源の科学は人間の好奇心から、功利的必要がなくても、知的な革新
を引き起こし、やがて産業革命の時期を迎えると科学と技術が結びつき、巨大
な産業化の時代を招きました。日本の場合、西洋科学の知的蓄積には乏しか
ったものの、明治期以降、科学技術教育に国家の総力を傾けたことは賢明で
した。科学の発展は先進国に期待し、その成果を輸入して実用化に励むとい
う政策は時代の状況に合っていました。西洋の発見を実用化するという点で、
日本が先んじた礼は数多くあります。(続く)

                      (4月22日付、読売新聞1,2面参照、一部引用)

Photo  
「オランダ/デフルト東門」 (二宮 T・Uさん画

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2012年4月26日 (木)

小沢氏に無罪判決

◆小沢一郎氏の「陸山会」事件に対する裁判は、「案の定」というべきか、無罪
判決が言い渡された。しかし、多くの国民がこの判決に釈然としないものを感じ
るのではないだろうか。裁判の鉄則である「疑わしきは罰せず」ということか、
「証拠不十分」ということか。結局秘書であった、大久保、石川、池田の三被告
(有罪確定、控訴中)に責任をなすりつけ、親分は無傷。これ即ち、トカゲの尻
尾切りでなくてなんだろう。

◆事の本質は政治家とカネの問題だったはず。資金管理団体の名を借りて、
不動産を購入、その資金の出所が西松建設の政治献金疑惑だったのでは?
結局曖昧なうちに証拠不十分となり、争点は政治資金収支報告書の虚偽記入
問題に矮小化された。この時点で勝負あったのだ。

◆国会での参考人招致も、証人喚問も一切撥ねつけ、逃げ回った上、国民に
は「無罪だ、無罪だ」と説明責任を果たさず、裁判では「知らぬ、存ぜず」を押し
通し、挙句の果てが「無罪」! 一体この騒ぎは何だったのか?本人も、周りの
取り巻き連中も「してやったり」と、内心ほくそ笑んでいるのだろう。

◆それにしても、この国の政治はこれからどうなるのか?ますます混迷の度合
いを深めるだろう。目の前に、行方が定まらぬ沈没寸前の船の姿が浮かんで
くる。

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2012年4月25日 (水)

鎌倉歴史探訪(10) 江の島篇・後

◆江の島は鎌倉・室町期には戦勝祈願、戦の要衝として歴史が刻まれてきたが、
江戸時代の寛延2年(1749)になると、江の島三神社と弁財天開帳が始まり、庶
民の中に安産、家内安全などを祈願する江の島詣でが始まりだした。江戸の庶
民にも経済的余裕が生まれ、信仰半分、旅行半分、現在のレジャーブームの
ようなものだった。


Dscf3880  上の宮鳥居

◆「江の島・鎌倉詣で」の代表的な3泊4日ツワーを例に見てみよう。
1日目: 江戸~東海道~保土ヶ谷宿(1泊目)
2日目: 保土ヶ谷宿~藤沢宿~江の島神社・岩屋参拝~鎌倉辺りで(2泊目)
3日目: 鶴岡八幡宮と鎌倉の寺院参拝~朝比奈切通し~金沢~六浦~
      金沢八景称名寺~川崎宿(3泊目)
4日目: 川崎大師参詣~東海道~江戸(帰着)
こうしてみると、比較的ゆったりした旅行行程だったようだ。

Dscf3891_2
 この崖の下に岩屋がある。

◆さて江の島と云えば、冒頭で触れた歌舞伎「白波五人男」のことが思い浮か
ぶ。文久2年(1862)3月初演の河竹黙阿弥の代表作。この歌舞伎の背景にあ
るのは、島に渡るのに利用する渡し船や担ぎ屋などのユスリ、タカリが横行し
ていたことや、宿に泊まった客の金品が狙われたことなどもある。江の島神社
のお賽銭、岩屋の手前にある悲しい伝説の場所稚児ヶ淵などが「弁天小僧菊
之助」の名セリフに登場してくる。


◆盗人の正体がばれ、開き直って名乗るタンカが格好良いし、スカットする。

知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、
種は尽きねえ七里ガ浜、その白波の夜働き、以前をいやあ江の島で、
年季勤めの稚児ヶ淵。(略) 百が二百と賽銭の、くすね銭せえだんだんに、
悪事はのぼる上の宮岩本院で講中の、枕探しも度重なり、(略)とうとう島
を追い出され、それから若衆の美人局、(略) 
名さえ由縁の弁天小僧菊之助たぁ、おれがことだ。


◆この歌舞伎が初演された時代背景を見ると、世は幕末動乱期。この年
は伏見寺田屋事件や生麦事件があった年。不安な世相にも庶民は痛快な
娯楽を求めていたんでしょうね。(本稿終わり)


Photo  金沢文庫称名寺: 絵 T・Yさん


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2012年4月24日 (火)

鎌倉歴史探訪(10)・江の島篇前

◆今回のシルバー鎌倉歴史探訪は「江の島」。生憎の雨にも拘らず5名のツワ
モノが参加。ガイド役はいつものS女史。江の島の岩場には大きな白波が立って
まさしく白波五人男ならぬ、白波五人男女。降りしきる雨の中、さすがは江の島
だ。若い女性、中年女性のグループが三々五々訪れていた。


Dscf3877_2 雨に煙る江の島

◆江の島といえば、海水浴、ヨット、釣り等のレジャーの他に弁天様と観光客と
いう俗っぽいイメージが強いのだが、歴史を聞いて意外や意外。灯台のある
頂上付近から、9,000年前の縄文時代前期の住居跡や土器、石器などが発見
されたとのこと。さらに源頼朝以来、江の島に関わる歴史上の人物は枚挙に暇
が無いくらい多いことを知る。


◆江の島神社は辺津宮(下の宮)、中津宮(上の宮)、奥津宮(本宮)の三社と
さらに波の浸食でできた岩屋からなり、この岩屋こそ欽明天皇の13年(552)に
この洞窟に九州の宗像三女神(海の神)を祀ったのがそもそもの始まりとされ
ているそうだから驚きだ。安芸の宮島、近江の竹生島とともに日本三弁天の
ひとつに挙げられているくらいだから、由緒は折り紙つきだ。


Dscf3886_2 辺津宮(下の宮)

Dscf3888_2_2  烏も雨宿り


Dscf3890_2  中津宮横手の庭園

Dscf3893_2  奥津宮

◆さて、江の島には若い頃から何度か観光、釣りなどで訪れているのだが、
岩屋に入ったのは今回が初めて。その頃は歴史にそれほど興味がなかっ
のだろう。岩屋に入るには今でこそ整備された階段を海際まで降りて、
岩場に巡らされた回廊を通り、入洞料を払えば簡単に拝観できるのだが、
その昔は岩の崖に拵えた「蜀の桟道」みたいなところを通ったというから、
やはり大変だったのだろう。


◆第一岩屋の一番奥まで152m、弁天様が鎮座しているのかと思いきや、
小さな古い祠がある他に、取り立てて記すべきものは何もない。最初に参
拝した辺津宮の脇にある弁天堂(奉安殿)に、俗に裸弁天と云われる弁財
天像が安置されているそうだが、そこに引っ越しなされたか?
ただ写真左の三つ鱗の紋は、鎌倉幕府初代執権、北条時政が参籠した折
の龍神伝説で、竜神が残した三枚の鱗から北条家の家紋にしたという。

Dscf3896_2  岩屋最深部

(続く)

  

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